・・・左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重にも同道を懇願した。甚太夫は始は苦々しげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易に承け引く色を示さなかった。が、しまいには彼も我を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎の取りなしを・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・またその一団は珍しそうに、幾重にも蜜のにおいを抱いた薔薇の花の中へまぐれこんだ。そうしてさらにまたある一団は、縦横に青空を裂いている薔薇の枝と枝との間へ、早くも眼には見えないほど、細い糸を張り始めた。もし彼等に声があったら、この白日の庚申薔・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・が、繃帯した手に、待ちこがれた包を解いた、真綿を幾重にも分けながら。 両手にうけて捧げ参らす――罰当り……頬を、唇を、と思ったのが、面を合すと、仏師の若き妻の面でない――幼い時を、そのままに、夢にも忘れまじき、なき母の面影であった。・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・山が裏手に幾重にも迫って、溪の底にも溪がある。点々としている自然、永劫の寂寥をしみ/″\味わうというなら此処に来るもいゝが、陰気と、単調に人をして愁殺するものがある。風雨のために壊された大湯、其処に此の山の百姓らしい女が浴している。少し行く・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・スクリュウに捲き上げられ沸騰し飛散する騒騒の迸沫は、海水の黒の中で、鷲のように鮮やかに感ぜられ、ひろい澪は、大きい螺旋がはじけたように、幾重にも細かい柔軟の波線をひろげている。日本海は墨絵だ、と愚にもつかぬ断案を下して、私は、やや得意になっ・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・ただ溶媒中における溶質分子の拡散と比べてはなはだしく幾重にも複雑な方則に支配されるであろうし、拡散する「物」の安定度が少ないために、事がらがいっそう込み入って来るのであろう。 以上は畢竟一つの空想に過ぎない。ただ、近来わが国固有文化に関・・・ 寺田寅彦 「日本楽器の名称」
・・・月の光は幾重にも重った霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火のように輝していた。屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも三重にも建て廻らされた正方形なる玉垣の姿と、並んだ石燈籠の直・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ミイラにも二種類あるが、エジプトのミイラというやつは死体の上を布で幾重にも巻き固めて、土か木のようにしてしまって、其上に目口鼻を彩色で派手に書くのである。其中には人がいるのには違いないが、表面から見てはどうしても大きな人形としか見えぬ。自分・・・ 正岡子規 「死後」
・・・自己の心を幾重にも幾重にも反省する。ある行為をする自分を反省し、その反省を行う自己を反省するというように、心の内部へ内部へとほり下げて行く、その過程の叙述が現代作家のもっとも興味をもってアタックしたいと考える対象である」と規定せられている。・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・ 吉井徳子さんの場合は、幾重にもたたまってかぶさって来た境遇的な不幸を、一人の女としてはねかえして生きる道を見出すために佐賀錦の仕事がとらえられました。仕事、そして職業。ここでは二つのものが、生活の必要という立前から虚飾なく統一されてい・・・ 宮本百合子 「現実の道」
出典:青空文庫