・・・が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、物思いに沈んでいるばかりであった。 何週間かは経過した。 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・第三に、八月上旬、屋敷の広間あたりから、夜な夜な大きな怪火が出て、芝の方へ飛んで行ったと云う。 そのほか、八月十四日の昼には、天文に通じている家来の才木茂右衛門と云う男が目付へ来て、「明十五日は、殿の御身に大変があるかも知れませぬ。昨夜・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・燻製の魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡のようにがらんと黝ずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。なんともいえない嫌悪の情が彼を焦ら立たせるばかりだった。彼はそこを飛び出して行って畑の中・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 処刑をする広間はもうすっかり明るくなっている。格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入って来た人に冷やかな、不愉快な印象を与える。鼠色に塗った壁に沿うて、黒い椅子が一列に据えてある。フレンチの目を射た・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・私たち二人は、その晩、長野の町の一大構の旅館の奥の、母屋から板廊下を遠く隔てた離座敷らしい十畳の広間に泊った。 はじめ、停車場から俥を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」 で、上靴を穿かせて、つ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものが顕れるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。 昼飯の支度は、この乳母どのに誂えて、それから浴室へ下りて一浴した。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・奥座敷上段の広間、京間の十畳で、本床附、畳は滑るほど新らしく、襖天井は輝くばかり、誰の筆とも知らず、薬草を銜えた神農様の画像の一軸、これを床の間の正面に掛けて、花は磯馴、あすこいらは遠州が流行りまする処で、亭主の好きな赤烏帽子、行儀を崩さず・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ その年の暮、二ツ井戸の玉突屋日本橋クラブの二階広間で広沢八助連中素人浄瑠璃大会が開かれ、聴衆約百名、盛会であった。軽部村彦こと軽部村寿はそのときはじめて高座に上った。はじめてのことゆえむろん露払いで、ぱらりぱらりと集りかけた聴衆の・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 寺院に掛け合って、断られたので、商人宿の一番広い部屋を二つ借り受け、襖を外して、ぶっ通しの広間をつくり、それを会場にした。それから、「仁寄せ」に掛った。「仁寄せ」などと言えば、香具師めくが、やはりここはあくまでこの言葉でなくてはな・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十」を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫