・・・ しばらく無言が続いた後、お蓮がこう問い直すと、声はやっと彼女の耳に、懐しい名前を囁いてくれた。「金――金さん。金さん。」「ほんとうかい? ほんとうなら嬉しいけれど、――」 お蓮は頬杖をついたまま、物思わしそうな眼つきになっ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・が、そう云う家の中に、赤々と竈の火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、懐しい気もちだけはして来ました。 御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは琉球人だとか、あの檻には豕が飼ってあるとか、いろいろ教え・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・女はすぐさま汽車に乗って、懐しい東京へ着くが早いか、懐しい信行寺の門前へやって来ました。それがまたちょうど十六日の説教日の午前だったのです。「女は早速庫裡へ行って、誰かに子供の消息を尋ねたいと思いました。しかし説教がすまない内は、勿論和・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ それは確に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・と促し立てて、懐しいお敏の消息を、夢中になって聞いていました。が、その内に泰さんにも、この妙な声が聞えたのでしょう。「何だか騒々しいな。君の方かい。」と尋ねますから、「いや僕の方じゃない。混線だろう。」と答えますと、泰さんはちょいと舌打ちを・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……得忘るまじく可懐しい。ただ思うにさえ、胸の時めく里である。 この年の春の末であった。―― 雀を見ても、燕を見ても、手を束ねて、寺に籠ってはいられない。その日の糧の不安さに、はじめはただ町や辻をうろついて廻ったが、落穂のないのは知・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室は閉ったままで、ただほのかに見える散れ松葉のその模様が、懐しい百人一首の表紙に見えた。 泉鏡花 「縁結び」
・・・ その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと面を打った、懐しく床しい、留南奇がある。 この高崎では、大分旅客の出入りがあった。 そこここ、疎に透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・それは、懐しい、恋しい情が昂って、路々の雪礫に目が眩んだ次第ではない。 ――逢いに来た――と報知を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家から、番傘を傾け傾け、雪を凌いで帰る途中も、その婦を思うと、鎖した町家の隙間洩る、仄な燈火よりも颯と濃い緋・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・これあるがためか、と思ったまで、雨の白河は懐しい。都をば霞とともに出でしかど……一首を読むのに、あの洒落ものの坊さんが、頭を天日に曝したというのを思出す……「意気な人だ。」とうっかり、あみ棚に預けた夏帽子の下で素頭を敲くと、小県はひとりで浮・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
出典:青空文庫