・・・それは床屋の裏になった棟割り長屋の一軒だった。主人は近所の工場か何かへ勤めに行った留守だったと見え、造作の悪い家の中には赤児に乳房を含ませた細君、――彼の妹のほかに人かげはなかった。彼の妹は妹と云っても、彼よりもずっと大人じみていた。のみな・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ 又 所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。若し夫れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。 事実 しかし紛・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。 彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・ 宗吉は、お千さんの、湯にだけは密と行っても、床屋へは行けもせず、呼ぶのも慎むべき境遇を頷きながら、お妾に剃刀を借りて戻る。……「おっと!……ついでに金盥……気を利かして、気を利かして。」 この間に、いま何か話があったと見える。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
私は、机の前に坐っているうちに、いつしか年をとってしまいました。床屋が、他人の頭の格好を気にしながら、鋏をカチ/\やっているうちに、自分の青年時代が去り、いつしか、その頭髪が白くなって、腰の曲った時が至る如く、また、靴匠が仕事場に坐っ・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・すると坂の下のところに、小さなみすぼらしい床屋がありました。「この床屋かしらん。」と、勇ちゃんは思ったが、まさかこんな汚らしい家ではあるまいというような気もして、その前までいってみると、木田の姿が、すぐ目にはいったのです。「勇ちゃん・・・ 小川未明 「すいれんは咲いたが」
・・・――こゝの床屋さんは赤い着物を着ている。 顔のちっとも写らない壊れた小さい鏡の置いてある窓際に坐ると、それでも首にハンカチをまいて、白いエプロンをかけてくれる。この「赤い」床屋さんは瘤の多いグル/\頭の、太い眉をした元船員の男だった。三・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・この細工は床屋の寅吉に泣きついてさせたのだという。章坊は、「兄さんを写してあげるんだから、よう、炬燵から出てくださいよ」と甘えるように言うかと思うと、「じきです。じき写ります」と、まじめに写真やのつもりでいる。「兄さんは炬燵へ当・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・あの時、私は床屋にいて散髪の最中であったのだが、知らせの花火の音を聞いているうちに我慢出来なくなり、非常に困ったのである。嫂も、あの時、針仕事をしていたのだそうであるが、花火の音を聞いたら、針仕事を続けることが出来なくなって、困ってしまった・・・ 太宰治 「一燈」
出典:青空文庫