・・・ 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間に合うまい。――じゃ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口に銜えて青い煙をほがらかに吹いていた。そこからは気息づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん刺戟した。「小作料の一文も・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・沢本 そうすると、俺たちはうんと飯を食って底力を養うことができるぞ。青島 そうだ。沢本 ああ早く我らの共同の敵なるフィリスティンどもが来るといいなあ。おい若様、少し働こう。二人であらかた画室を片づける。花田と戸部と・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々に糶るのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」 と黒い外套を着た男が、同伴の、意気で優容の円髷に、低声で云った。「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・日本の文人は好い加減な処で忽ち人生の見巧者となり通人となって了って、底力の無い声で咏嘆したり冷罵したり苦笑したりする。 小生は文学論をするツモリで無いから文学其物に就ては余り多くを云うを好まぬが、二十五年前には道楽であった文学が今日では・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・口の先きで喋べる我々はその底力のある音声を聞くと、自分の饒舌が如何にも薄ッぺらで目方がないのを恥かしく思った。 何を咄したか忘れてしまったが、今でも頭脳に固く印しているのは、その時卓子の上に読半しの書籍が開いたまま置かれてあったのを何で・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ その声は低いけれども底力があって、なんだか私を命令するようでした。『ここで見てやるから持って来い』と私は外から言いました。『お入りなされと言うに!』と今度はなお強く言いましたので私も仕方がないから、のっそり内庭に入りました。私・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・それにランプの焔はどこかしっかりした底力をもっているのに反して、蝋燭の焔は云わば根のない浮草のように果敢ない弱い感じがある。その上にだんだんに燃え縮まって行くという自覚は何となく私を落着かせない。私は蝋燭の光の下で落着いて仕事に没頭する気に・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・けれどもいかにも無邪気な子供らしい声が、呼んだり答えたり、勝手にひとり叫んだり、わあと笑ったり、その間には太い底力のある大人の声もまじって聞えて来たのです。いかにも何か面白そうなのです。たまらなくなって、私はそっちへ走りました。さるとりいば・・・ 宮沢賢治 「茨海小学校」
・・・ 自分とAとのことも、或底力を得た。とにかく、行く処迄、真心を以て行かせよう。彼が死ぬことになるか、自分がどうかなるか、どちらでもよい。信仰を持ち、人生のおろそかでないことを知ってやる丈やって見ようと云う心持がはっきり来たのだ。 此・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
出典:青空文庫