・・・そこは貴方、府中の鎮守様の裏手でございまして、手が届きそうな小さな丘なんでございますよ。もっとも何千年の昔から人足の絶えた処には違いございません、何蕨でも生えてりゃ小児が取りに入りましょうけれども、御覧じゃりまし、お茶の水の向うの崖だって仙・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――武生は昔の府中である。 その年は八月中旬、近江、越前の国境に凄じい山嘯の洪水があって、いつも敦賀――其処から汽車が通じていた――へ行く順路の、春日野峠を越えて、大良、大日枝、山岨を断崕の海に沿う新道は、崖くずれのために、全く道の塞っ・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・――都路の唄につけても、此処を府中と覚えた身には、静岡へ来て阿部川餅を知らないでは済まぬ気がする。これを、おかしなものの異名だなぞと思われては困る。確かに、豆粉をまぶした餅である。 賤機山、浅間を吹降す風の強い、寒い日で。寂しい屋敷町を・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・ 府中から百草園に行くのも面白い。玉川鉄道で二子に行って若鮎を食うのも興がある。国府台に行って、利根を渡って、東郊をそぞろあるきするのも好い。 端午の節句――要垣の赤い新芽の出た細い巷路を行くと、ハタハタと五月鯉の風に動く音がする。・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・それを書きあげて、『新潮』へ送ってほとんど間もなく、すっかり仕事が中断されたわけです。府中へは私もひどい風をひいたとき行きそうになって、おやめになったそうです。 私が伺ってあげた読書のプランについてのお考えはいかがですか。少くとも文学に・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・八月二十六日、府中刑務所で、今野、岡村弁護人が竹内被告に面会したとき、竹内被告との間に左のような問答が交わされた。「わたしは先日、拘留開示の前におあいしたとき、ぜんぜんこの事件には関係ないといいましたが、それはウソで、じつは私が電車を走・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・十月十〔四〕日、宮本が網走刑務所から解放されて東京へ帰ってきた。府中刑務所の予防拘禁から解放された徳田球一その他の同志たちの間に活動が開始された。『アカハタ』第一号がパンフレットの形で発刊された。日本にはじめて共産党の機関紙が合法的に出・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・十月十日に府中刑務所から解放された重吉の同志たちが、すぐ郊外に集団生活をはじめていた。そこへ重吉につれられて行って、ひろ子は、昔会ったことのあった婦人活動家の一人にめぐり会った。そのひとから獄中で死んだ幾人かの人々の話をきいた。宮城刑務所に・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・これは家康がこの府中の城に住むことにきめて沙汰をしたのが今年の正月二十五日で、城はまだ普請中であるので、朝鮮の使の饗応を本多が邸ですることに言いつけておいたからである。「一応とりただしてみることにいたしましょうか」と、本多はやはり気色を・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫