・・・不憫なりとは語りあえど、まじめに引取りて末永く育てんというものなく、時には庭先の掃除など命じ人らしく扱うものありしかど、永くは続かず。初めは童母を慕いて泣きぬ、人人物与えて慰めたり。童は母を思わずなりぬ、人人の慈悲は童をして母を忘れしめたる・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ そして構造の大きな農家らしき家の前に来ると、庭先で「左様なら」と挨拶して此方へ来る女がある、その声が如何にもお正に似ているように思われ、つい立ちどまって居ると、往来へ出て月の光を正面に向けた顔は確かにお正である。「お正さん」大友は・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・若者一個庭前にて何事をかなしつつあるを見る。礫多き路に沿いたる井戸の傍らに少女あり。水枯れし小川の岸に幾株の老梅並び樹てり、柿の実、星のごとくこの梅樹の際より現わる。紅葉火のごとく燃えて一叢の竹林を照らす。ますます奥深く分け入れば村窮まりて・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・暫時するとこれも力なげに糸を巻き籠を水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、程遠からぬ富岡の宅まで行った。庭先で「老先生どうかしたのか喃」と老僕倉蔵が声を潜めて問うた。「イヤどうもなさらん」「でも様子が少し違うから私又どうかなさ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・だからもし大きなむすこが腹をたてて帰って来て、庭先でどなりでもするような事があると、おばあさんは以前のような、小さい、言う事をきく子どもにしようと思っただけで、即座にちっぽけに見る事もできましたし、孫たちがよちよち歩きで庭に出て来るのを見る・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・町中を水量たっぷりの澄んだ小川が、それこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に残る隈なく駈けめぐり、清冽の流れの底には水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 庭先からはいって行くと、青扇は、いかにも嬉しげに僕をむかえた。頭髪を短く刈ってしまって、いよいよ若く見えた。けれど容色はどこやらけわしくなっていたようであった。紺絣の単衣を着ていた。僕もなんだかなつかしくて、彼の痩せた肩にもたれかかる・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・奉公に来て二日目の朝、てるは庭先で手帖を一冊ひろった。それには、わけのわからぬ事が、いっぱい書かれて在った。美濃十郎の手帖である。○あれでもない、これでもない。○何も無い。○FNへチップ五円わすれぬこと。薔薇の花束、白と薄紅がよ・・・ 太宰治 「古典風」
・・・誰に断って、のこのこ、ひとの庭先なんかへ、やって来たんだ、と言おうと思ったが、あんまりそれは、あさましい理窟で、言うのを止めた。「訪ねたから、それがどうしました。」商人は、私が言い澱んでいるので、つけこんで来た。「私だって、一家のあるじ・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・残雪がまだ消えやらず化粧柳の若芽が真紅に萌え立つ頃には宿の庭先に兎が子供を連れて遊びに来たり、山鳥が餌をあさり歩くことも珍しくないそうである。 夜中雨が降って翌朝は少し小降りにはなったがいつ止むとも見えない。宿の番傘を借りて明神池見物に・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
出典:青空文庫