・・・ 鉄也さんというのは今井の叔父さんの独り子で、不幸にも四、五年前から気が狂って、乱暴は働かないが全くの廃人であった。そのころ鉄也さんは二十一、二で、もし満足の人なら叔父さんのためには将来の希望であった。しかるに叔父さんもその希望が全くな・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・これが廃人としての唯一のつとめか。かれは、そのような状態に墜ちても、なお、何かの「ため」を捨て切れなかった。私の身のうちに、まだ、どこか食えるところがあるならば、どうか勝手に食って下さい、と寝ころんでいる。食えるところがまだあった。かれは地・・・ 太宰治 「花燭」
・・・終戦になって、何が何やら、ただへとへとに疲れて、誇張した言い方をするなら、ほとんど這うようにして栃木県の生家にたどりつき、それから三箇月間も、父母の膝下でただぼんやり癈人みたいな生活をして、そのうちに東京の、学生時代からの文学の友だちで、柳・・・ 太宰治 「女類」
・・・その他、様々の伝説が嘲笑、嫌悪憤怒を以て世人に語られ、私は全く葬り去られ、廃人の待遇を受けていたのである。私は、それに気が附き、下宿から一歩も外に出たくなくなった。酒の無い夜は、塩せんべいを齧りながら探偵小説を読むのが、幽かに楽しかった。雑・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・部屋から一歩も出なかった。癈人、と或る見舞客が、うっかり口を滑らしたのを聞いて、流石に、いやな気がした。 いまは、素裸にサンダル、かなり丈夫の楯を一つ持っている。私は、いまは、世評を警戒している。「私は嘗つて民衆に対してどんな罪を犯した・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 私が目でも見えてどしどし稼げたら、何ぞの事も出来るやろが、もう廃人なんやから、お君は、貴方ばかりをたよりにしとるんやさかいなあ。 此女も、親子縁が薄うおすのや。と哀願する様にたのんだ。 チラッとお君の顔を見て、軽い笑を・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 学者というものも、あの若い時に廃人同様になって、おとなしく世を送ったハルトマンや、大学教授の職に老いるヴントは別として、ショオペンハウエルは母親と義絶して、政府の信任している大学教授に毒口を利いた偏屈ものである。孝子でもなければ順民で・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
出典:青空文庫