・・・この物理の教官室は二階の隅に当っているため、体操器械のあるグラウンドや、グラウンドの向うの並松や、そのまた向うの赤煉瓦の建物を一目に見渡すのも容易だった。海も――海は建物と建物との間に薄暗い波を煙らせていた。「その代りに文学者は上ったり・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。もう進退窮った。彼れは道の向側の立樹の幹に馬を繋いで、燕麦と雑草とを切りこんだ亜麻袋を鞍輪からほどいて馬・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・……大きな建物ばかり、四方に聳立した中にこの仄白いのが、四角に暗夜を抽いた、どの窓にも光は見えず、靄の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう――大温習会、日本橋連中、と門柱に立掛けた、字のほかは真白な立看板を、白い電燈で照らしたの・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月の向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳の手沢の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・しかしもしここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建物を売ってみたところがほとんどわずかの金の価値しかないかも知れませぬ。しかしながらその教会の建った歴史を聞いたときに、その歴史がこういう歴史であったと仮定めてごらんなさ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・西洋ふうの建物がならんでいて、通りには、柳の木などが植わっていました。けれども、なんとなく静かな町でありました。 さよ子はその街の中を歩いてきますと、目の前に高い建物がありました。それは時計台で、塔の上に大きな時計があって、その時計のガ・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・で、私は見たくもない寺や社や、名ある建物などあちこち見て廻ったが、そのうちに足は疲れる。それに大阪鮨六片でやっと空腹を凌いでいるようなわけで、今度何か食おうにも持合せはもう五厘しかない。むやみに歩き廻って腹ばかり虚かせるのも考えものだ。そこ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・道頓堀川の岸へ下って行く階段の下の青いペンキ塗の建物は共同便所でした。芋を売る店があり、小間物屋があり、呉服屋があった。「まからんや」という帯専門のその店の前で、浜子は永いこと立っていました。 新次はしょっちゅう来馴れていて、二つ井戸な・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・粗末なバラックの建物のまわりの、六七本の桜の若樹は、もはや八分どおり咲いていた。…… 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・それは病院と言っても決して立派な建物ではなく、昼になると「妊婦預ります」という看板が屋根の上へ張り出されている粗末な洋風家屋であった。十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉ざされている。漏斗型に電燈の被いが部屋のなかの明暗を区切・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫