・・・ 毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返してかの石碑の前を漕いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜っておいて上るのが例で、風雨の烈しい晩、休む時はさし措き、年月夜ごとにきっとである。 且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・旦那様は都でいらっしゃいます、別にお目にも留りますまいが、私どもの目からはまるでもう弁天様か小町かと見えますほどです。それに深切で優しいおとなしい女でございまして、あれで一枚着飾らせますれば、上つ方のお姫様と申しても宜い位。」 ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・後方が長浜、あれが弁天島。――自動車は後眺望がよく利きませんな、むこうに山が一ツ浮いていましょう。淡島です。あの島々と、上の鷲頭山に包まれて、この海岸は、これから先、小海、重寺、口野などとなりますと、御覧の通り不穏な駿河湾が、山の根を奥へ奥・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・お蔦 あの、私は巳年で、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間よ、待っていて下さいな。早瀬 ああ、行くが可い、ついで、と云っては・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ごろうじろ、弁天さまのお屋根がすこしめいます。どうも霧が深うなってめいりました」 高さ四、五丈も、周囲二町もあろうと見える瓠なりな小島の北岸へ舟をつけた。瓠の頭は東にむいている。そのでっぱなに巨大な松が七、八本、あるいは立ち、あるいは這・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・「池ですか、弁天池といいます。」「弁天池……なにか、仏さまが祭ってあるのですか。」と、紳士はききました。「昔は、あったそうですが、いまは、なんにもありません。」と、信吉は、答えました。 紳士は、うっとりと池の景色をながめてい・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・ 弁天座、朝日座、角座……。そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見てたのしんだほど看板が見られたわけだったが、浜子は角座の隣りの果物屋の角をきゅうに千日前の方へ折れて、眼鏡屋の鏡の前で、浴衣の襟を直・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・往くたび毎に車に乗っても御父様の膝へ突伏してばかり居たが、或日帰途に弁天の池の端を通るとき、そうっと薄く眼を開いて見ると蓮の花や葉がありありと見えた。小供心にも盲目になるかと思って居たのが見えたのですから、其時の嬉しかったことは今思い出して・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・聞えない振りをして森を通り抜け、石段を降り、弁天様の境内を横切り、動物園の前を通って池に出た。池をめぐって半町ほど歩けば目的の茶店である。私は残忍な気持で、ほくそ笑んだ。さっきこの少年が、なあんだ遊びたがっていやがる、と言ったけれど、私の心・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・坂を下りて見ると不忍弁天の社務所が池の方へのめるように倒れかかっているのを見て、なるほどこれは大地震だなということがようやくはっきり呑込めて来た。 無事な日の続いているうちに突然に起った著しい変化を充分にリアライズするには存外手数が掛か・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
出典:青空文庫