・・・それでも合戦と云う日には、南無阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、『人の若衆を盗むよりしては首を取らりょと覚悟した』と、大声に歌をうたいながら、織田殿の身・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 権助は左手にしっかりと、松の太枝をおさえながら、そろそろ右の手を放しました。「それから左の手も放しておしまい。」「おい。おい。左の手を放そうものなら、あの田舎者は落ちてしまうぜ。落ちれば下には石があるし、とても命はありゃしない・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようがの。な」 仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き添えて笠井の言葉を聞き漏らすまいとした。それほど寒い風は激しい音で募っていた。笠井はくどくどとそこに行き着く注意を繰返・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・それで清潔になるのである。 或る料理屋の女将が、小間物屋がばらふの櫛を売りに来た時、丁度半纏を着て居た。それで左手を支いて、くの字なりになって、右手を斜に高く挙げて、ばらふの櫛を取って、透かして見た。その容姿は似つかわしくて、何ともいえ・・・ 泉鏡花 「白い下地」
・・・雨戸の中は、相州西鎌倉乱橋の妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣った八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。 声を懸けて、戸を敲いて、開けて・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・若い者の取落したのか、下の帯一筋あったを幸に、それにて牛乳鑵を背負い、三箇のバケツを左手にかかえ右手に牛の鼻綱を取って殿した。自分より一歩先に行く男は始めて牛を牽くという男であったから、幾度か牛を手離してしまう。そのたびに自分は、その牛を捕・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・政さんはにこにこしながら省作の左手へ座をとる。「昨日の稲刈りはにぎやかでしたねい。わたしはおはまさんに惚れっちゃった。ハハハハハ」 政さんは話上手でよく場合に応じての話がすこぶるうまいもんだ。戯言とまじめと工合よく取り交ぜて人を話に・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 向島の言問の手前を堤下に下りて、牛の御前の鳥居前を小半丁も行くと左手に少し引込んで黄蘗の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・危い崖を踏んで溪川を左手に眺めながら行くと林の下に樵夫の小舎がある。其処から少し行くと、地獄谷というところに出る。常に岩の間から熱湯を沸き上げている。あたりには、白く霧がかゝっている。溪川には、湯が湧き出で、白い湯花が漂って、岩に引っかゝっ・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
正ちゃんは、左ぎっちょで、はしを持つにも左手です。まりを投げるのにも、右手でなくて左手です。「正ちゃんは、左ピッチャーだね。」と、みんなにいわれました。 けれど、学校のお習字は、どうしても右手でなくてはいけませんので、お習字の・・・ 小川未明 「左ぎっちょの正ちゃん」
出典:青空文庫