・・・それが一度鍵の手に群る雲を引っ裂いて、余る勢いに池の水を柱のごとく捲き起したようでございましたが、恵印の眼にはその刹那、その水煙と雲との間に、金色の爪を閃かせて一文字に空へ昇って行く十丈あまりの黒竜が、朦朧として映りました。が、それは瞬く暇・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ その、扇子を引ったくると、「あなたよ、こんなものを置いとくだ。」 と叱るようにいって、開いたまま、その薄色の扇子で、木魚を伏せた。 極りも悪いし、叱られたわんぱくが、ふてたように、わざとらしく祝していった。「上へのっけ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 省作は出してもらった着物を引っ掛け、兵児帯のぐるぐる巻きで、そこへそのまま寝転ぶ。母は省作の脱いだやつを衣紋竹にかける。「おッ母さん、茶でも入れべい。とんだことした、菓子買ってくればよかった」「お前、茶どころではないよ」と・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・溪川には、湯が湧き出で、白い湯花が漂って、岩に引っかゝっているところもある。 崖の上に一軒のみすぼらしい茶屋があった。渋温泉に来た客は、此の地獄谷へ来るものはあっても、稀にしか崖を上って此の茶屋で休むものはなかろう。其の少ない客を頼りに・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・彼は今度の長編を地方の新聞へ書いている間、山の温泉に半年ほども引っこんでいた。そして二カ月ほど前に、相当の貯金とかなりの得意さで、帰ってきたのだ。私は彼に会った時に、言った。「君がいなかったものだから、僕は嚊も子供も皆な奪られてしまったよ」・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・せめて二三千円の金でも残ったら、こうした処へ引っこんで林檎畠の世話でもして、糞草鞋を履いて働いてもいいから暢気に暮したいものだと。……僕もあまり身体が丈夫でありませんからね。今でも例の肋膜が、冬になると少しその気が出るんですよ」 惣治も・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ ところがある日、日の暮に飯塚の家の前を通るとおさよが飛び出して来て、私を無理に引っ張り込みました。そしてなぜこの四五日遊びに来なかったと聞きますから、風邪を引いたといいますと、それは大変だ、もう癒ったかと、私の顔を覗きこんで、まだ顔色・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・徳の本心はやっぱりわしを引っぱり出して五円でも十円でもかせがそうとするのだ、その証拠には、せんだってごろまでは遊んで暮らすのはむだだ、足腰の達者なうちは取れる金なら取るようにするが得だ、叔父さんが出る気さえあればきっと周旋する、どうせ隠居仕・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ポケットから二三枚の二ツに折った葉書と共に、写真を引っぱり出した時、伍長は、「この写真を何と云って呉れたい?」とへへら笑うように云った。「何も云いやしません。」「こいつにでもなか/\金を入れとるだろう。……偽せ札でもこしらえんけ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさっと引っぱられた。「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。「今晩は、――ガーリヤ!」 ――彼が窓に届・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫