・・・真と美とモラルの高みへとわれわれを引き上げてくれるのである。かような人間教育をなし得る書物こそ最良の書であり、青年がたましいを傾けて愛読すべきものである。 われわれが読書に意を注がぬことの最も恐ろしいのは、かような人間教育の書にふれる機・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・炊事場を引き上げて、中隊へ帰るのだ。 彼は、これまでに、しばしば危険に身を曝したことを思った。 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸ばしらして・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そしてすぐ馬によって平地へ引き上げられた。一つが落ちこむと、あとのも、つづいて、コトンコトンと落ちては引き上げられた。滑桁の金具がキシキシ鳴った。「ルー、ルルル。……」 イワンは、うしろの馭者に何か合図をした。 大隊長は、肥り肉・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・かなり重い魚であったが、引上げるとそれは大きな鮒であった。小さい畚にそれを入れて、川柳の細い枝を折取って跳出さぬように押え蔽った少年は、その手を小草でふきながら予の方を見て、 小父さん、また餌をくれる?と如何にも欲しそうに言った。・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・折々手でずぼんを引き上げながら、歩いて行く。ずぼんが少し広過ぎるようになった程痩せているらしい。老人は手の甲で上髭を撫でた。髭には湿った空気が凝って露になっていたのである。そして空を仰いだ。もう空は日が見えなくなって、重くろしい、落ちかかり・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 井伏さんも酔わず、私も酔わず、浅く呑んで、どうやら大過なく、引き上げたことだけはたしかである。 井伏さんと早稲田界隈。私には、怪談みたいに思われる。 井伏さんも、その日、よっぽど当惑した御様子で、私と一緒に省線で帰り、阿佐ヶ谷・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・疎開先の青森から引き上げて来て、四箇月振りで夫と逢った時、夫の笑顔がどこやら卑屈で、そうして、私の視線を避けるような、おどおどしたお態度で、私はただそれを、不自由なひとり暮しのために、おやつれになった、とだけ感じて、いたいたしく思ったものだ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・そうだという返答をたしかめてから後に悠々と卓布一杯に散々楽書をし散らして、そうして苦い顔をしているオーバーを残してゆるゆる引上げたという話もある。 ドイツだとこれほど簡単に数字的に始末の出来る事が、我が駒込辺ではそう簡単でないようである・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・池につないでおくと、たぶん職人か土方だろうが、よくいたずらをして困るので、ああして引き上げておくのである。ナンキン錠をいくらつけ換えても、すぐ打ちこわされるので、根気負けがしたのである。無論土方か職人のしわざに相違ない。 池の周囲の磁力・・・ 寺田寅彦 「池」
一 道太が甥の辰之助と、兄の留守宅を出たのは、ちょうどその日の昼少し過ぎであった。彼は兄の病臥している山の事務所を引き揚げて、その時K市のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫