・・・隣で台湾飴を売っていた男が、あの毛布なら五百円でも売れる、百円で売る奴があるかというのを背中で聴きながら、ホテルの向い側へ引き返し、大阪一点張りに張ってみたが、半時間もたたぬうちに百円が飛んでしまった。 帰りの道は夏服の寒さが一層こたえ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・それで明日の朝女房が出てくるというんだが、とにかく引返してくれ」と、私は息を切らして言った。「おやじが死んだ……?」と、弟も声を呑んだ。「おやじが死んだからって、あれが出てくるってのも変な話だが、とにかくただ事じゃないね……」「・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・が土井は間もなく引返してきた。「どうか許してくれたまえ」と、私は彼に嘆願した。しかし彼は聴かなかった。結局私は彼に引張られて、下宿を出た。 会場は山の手の賑やかな通りからちょっとはいった、かなりな建物の西洋料理屋だ。私たちがそこの角を曲・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々と立ち罩めた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・また母がもう彼の部屋へ来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。が、来たのは手紙だった。そして来るべき人は津枝だった。堯の幻覚はやんだ。 街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。彼はだんだん呼吸が切迫・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・母は直ぐ鎌倉に引返したのでした。 其後僕と母とは会わないのです。僕は母に交って此方に来て、母は今、横浜の宅に居ますが、里子は両方を交る/″\介抱して、二人の不幸をば一人で正直に解釈し、たゞ/\怨霊の業とのみ信じて、二人の胸の中の真の苦悩・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・村長は腕を組んで暫時く考えていたが歎息をして、自分の家の方へ引返した。 四 村長は高山の依頼を言い出す機会の無いのに引きかえて校長細川繁は殆ど毎夜の如く富岡先生を訪うて十時過ぎ頃まで談話ている、談話をすると言う・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ やがて前の日叔父の言を聞いて引返したところへかかると、源三の歩みはまた遅くなった。しかし今度は、前の日自分が腰掛けた岩としばらく隠れた大な岩とをやや久しく見ていたが、そのあげくに突然と声張り上げて、ちとおかしな調子で、「我は官軍、我が・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・深谷に着きて汽車に打乗り、鴻巣にいたりて汽車を棄て、人力車を走らせて西吉見の百穴に人間の古をしのび、また引返して汽車に乗り、日なお高きに東京へ着き、我家のほとりに帰りつけば、秩父より流るる隅田川の水笑ましげに我が影を涵せり。・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・恵子と似た前からくる女を恵子と思い、友だちといっしょに歩いていたときでもよくきゅうに引き返して、小路へ入った。恵子は大柄な、女にはめずらしく前開きの歩き方をするので、そんな特徴の女に会うと、そのたびに間違ってギョッとした。不快でたまらなかっ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫