・・・「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」 お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋の主人は、短い口髭に縁無しの眼鏡と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわし・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・いや、弱りましたぜ、一夏は。 何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷い。まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・「大慈大悲は仏菩薩にこそおわすれ、この年老いた気の弱りに、毎度御意見は申すなれども、姫神、任侠の御気風ましまし、ともあれ、先んじて、お袖に縋ったものの願い事を、お聞届けの模様がある。一たび取次いでおましょうぞ――えいとな。…… や、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・「松村です、松村は確かだけれど、あやふやな男ですがね、弱りました、弱ったとも弱りましたよ。いや、何とも。」 上脊があるから、下にしゃがんだ男を、覗くように傾いて、「どうなさいました、まあ。」「何の事はありません。」 鉄枴・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ まさかに気があろうなどとは、怪我にも思うのじゃございますまいが、串戯をいわれるばかりでも、癩病の呼吸を吹懸けられますように、あの女も弱り切っておりましたそうですが。 つい事の起ります少し前でございました、沢井様の裏庭に夕顔の花が咲・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・「お願いです、身体もわるし、……実に弱りました。」「待たっせえ、何とかすべい。」お仏壇へ数珠を置くと、えいこらと立って、土間の足半を突掛けた。五十の上だが、しゃんとした足つきで、石いしころみちを向うへ切って、樗の花が咲重りつつ、屋根ぐるみ引・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・少年は少し弱りて、「それでなくッてさえ、先達のような騒がはじまるものを、そんなことをしようもんなら、それこそだ。僕アまた駈出して行かにゃあならない。」「ほんとうに、あの時は。ま、どうしようと思ったわ。 芳さんは駈出してしまって二・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではご・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・村越 先生は弱りました。(忸怩では書生流です、御案内。七左 その気象! その気象!撫子。出迎えんとして、ちょっと髷に手を遣り、台所へ下らんとするおりくの手を無理に取って、並んで出迎う。撫子 お帰り遊ばせ。村越 お・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・画家 いや、……先生は弱りました。が、町も村も大変な雑鬧ですから、その山の方へ行ってみます。――貴女は、つい、お見それ申しましたが、おなじ宿にでもおいでなのですか。夫人 ええ、じき(お傍にと言う意味籠……ですが、階下の奥に。あの……・・・ 泉鏡花 「山吹」
出典:青空文庫