・・・何故かと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るものは一人もいない。従ってまた人物も、顔は役者のごとくのっぺりしてい・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・算盤を弾く。帳合いを手伝う。中元の進物の差図をする。――その合間には、じれったそうな顔をして、帳場格子の上にある時計の針ばかり気にしていました。 そう云う苦しい思いをして、やっと店をぬけ出したのは、まだ西日の照りつける、五時少し前でした・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤を弾くように、指を反らして、「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」 と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。「じゃ、九人になる処だった。貴女の内・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と俯向けて唄うので、頸を抽いた転軫に掛る手つきは、鬼が角を弾くと言わば厳めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。――なから舞いたりしに、御輿の岳、愛宕山・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 他の遊芸は知らずと謂う、三味線はその好きの道にて、時ありては爪弾の、忍ぶ恋路の音を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹の塵を払いて、慎ましげに音〆をなすのみ。 お貞・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 頼もしいほど、陽気に賑かなのは、廂はずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。 船の舳の出たように、もう一座敷重って、そこにも三味線の音が・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ ストンと溝へ落ちたような心持ちで、電車を下りると、大粒ではないが、引包むように細かく降懸る雨を、中折で弾く精もない。 鼠の鍔をぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを的に来たように、素直に広小路を・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・負けぬ気の椿岳は業を煮やして、桜痴が弾くなら俺だって弾けると、誰の前でも怯めず臆せずベロンベロンと掻鳴らし、勝手な節をつけては盛んに平家を唸ったものだ。意気込の凄まじいのと態度の物々しいのとに呑まれて、聴かされたものは大抵巧いもんだと出鱈目・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・オルガンやヴヮイオリンは学校の道具であって、音楽学校の養成する音楽者というは『蛍の光』をオルガンで弾く事を知ってる人であった。音楽会を開いて招待しても嘆願しても聞きに来る人は一人も無かった。 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ おじいさんの弾くバイオリンの音は、泣くように悲しい音をたてるかと思うと、また笑うようにいきいきとした気持ちにさせるのでした。その音色は、さびしい城跡に立っている木々の長い眠りをばさましました。また、古い木に巣を造っている小鳥をばびっく・・・ 小川未明 「海のかなた」
出典:青空文庫