・・・しかしそういう適当な休み場所がまだ出来なかった去年頃まで、自分は友達を待ち合わしたり、あるいは散歩の疲れた足を休めたり、または単に往来の人の混雑を眺めるためには、新橋停車場内の待合所を択ぶがよいと思っていた。 その頃には銀座界隈には、己・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・わたくしは両親よりも一歩先に横浜から船に乗り、そして神戸の港で、後から陸行して来られる両親を待合したのである。 船は荷積をするため二日二晩碇泊しているので、そのあいだに、わたくしは一人で京都大阪の名所を見歩き、生れて初めての旅行を娯しん・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・この妾宅には珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小待合の座敷を聯想させるような、上等ならば紫檀、安ものならばニス塗の食卓を用いる事を許さないので、長火鉢の向うへ持出されるのは、古びて剥げてはいれど、やや大形の猫・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・実業家などがむずかしい相談をするのにかえって見当違の待合などで落合って要領を得ているのも、全く酒色という人間の窮屈を融かし合う機械の具った場所で、その影響の下に、角の取れた同情のある人間らしい心持で相互に所置ができるからだろうと思います。現・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・このことは、例えば、待合で食い逃げをした客にのこされたとき、おふみが「よかったねえ!」と艶歌師の芳太郎に向って「どうだ! 参ったろう」という、あすこいらの表現の緊めかたでもう少しの奥行が与えられたのではなかろうかと思う。特に、最後の場面で再・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・官吏、軍人、実業家の大頭の連中が、待合にゆくのが遊蕩であると考える俗人を睥睨して集合する築地の有名な待合×××を、この新聞の読者の何人が日常の接触で知っているであろうか、という質問によって。―― 横光利一氏などが中心に十円会という会があ・・・ 宮本百合子 「「大人の文学」論の現実性」
・・・戦争犯罪によって頭株をとられた進歩党が、築地の待合に共産党をのぞく各派の主だつ婦人たちをよんで、出席した者に、進歩党内の重要なポストを与える談合を行った。生産面における勤労階級の婦人の永年に亙る犠牲によって、日本の婦人参政権はもたらされたも・・・ 宮本百合子 「逆立ちの公・私」
・・・ 待合にしてある次の間には幾ら病人が溜まっていても、翁は小さい煙管で雲井を吹かしながら、ゆっくり盆栽を眺めていた。 午前に一度、午後に一度は、極まって三十分ばかり休む。その時は待合の病人の中を通り抜けて、北向きの小部屋に這入って、煎・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・多分待合かなにかであろう。往来はほとんど絶えていて、その家の門に子を負うた女が一人ぼんやりたたずんでいる。右のはずれの方には幅広く視野をさえぎって、海軍参考館の赤煉瓦がいかめしく立ちはだかっている。 渡辺はソファに腰をかけて、サロンの中・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・と思った。待合へはいってから何げなしに正面の大時計を見ると、いつのまにかたいへん時間がたっている。変だなと思って自分の時計を出して見る。自分のは十分ほど遅れている。午前には確かに合っていたのだが二時ごろ止まっていたのを友人の家のと合わせた時・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫