・・・前と後ろに桶に二十五ずついれて、桶半分くらい水を張っておかないと、こんにゃくはちぢかんでしまうから、天秤をつっかって肩でにないあげると、ギシギシと天秤がしまるほどだった。 ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 大きな声でふれながら、いつ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後ろへ廻わして体をどうと斜めに反らす。丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。「南無三、好事魔多し」と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜し・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・私は体中の神経を目に集めて、その一固りを見詰めた。 私は、ブルブル震え始めた。迚も立っていられなくなった。私は後ろの壁に凭れてしまった。そして坐りたくてならないのを強いて、ガタガタ震える足で突っ張った。眼が益々闇に馴れて来たので、蔽いか・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・時々後ろの方から牛が襲うて来やしまいかと恐れて後振り向いて見てはまた一散に食い入った。もとより厭く事を知らぬ余であるけれども、日の暮れかかったのに驚いていちご林を見棄てた。大急ぎに山を下りながら、遥かの木の間を見下すと、麓の村に夕日の残って・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・大将は云いながら三歩ばかり後ろに退いて、だしぬけに号令をかけました。「突貫」 楢夫は愕いてしまいました。こんな乱暴な演習は、今まで見たこともありません。それ所ではなく、小猿がみんな歯をむいて楢夫に走って来て、みんな小さな綱を出して、・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・十一時四十分上野発仙台行の列車で大して混んでいず、もっと後ろに沢山ゆとりはあるのだ。婆さんの連れは然し、「戸に近い方がいいものね、ばあや、洋傘置いちゃうといいわ、いそいでお座りよ。上へのっかっちゃってさ」 窓から覗き込んで指図する。・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・牛のすぐ後ろへ続いて、妻が大きな手籠をさげて牛の尻を葉のついたままの生の木枝で鞭打きながら往く、手籠の内から雛鶏の頭か、さなくば家鴨の頭がのぞいている。これらの女はみな男よりも小股で早足に歩む、その凋れたまっすぐな体躯を薄い小さなショールで・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・そこで更闌けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の竹垣の結び縄をことごとく切っておいた。それから帰って身支度をして、長押にかけた手槍をおろし、鷹の羽の紋の付いた鞘を払って、夜の明けるのを待っていた。 討手として阿部・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・そして、彼に的らず、後ろのものが胸を撃ち貫かれて即死した。 また別の第三の偶然事、これは一番栖方らしく梶には興味があったが、――少年の日のこと、まだ栖方は小学校の生徒で、朝学校へ行く途中、その日は母が栖方と一緒であった。雪のふかく降りつ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・深刻な眼は相手の人の額の後ろに隠れている思想を見徹しているようだ。肉体と肉体とがいかに接近してもそれは彼女には気にならないので、ただ魂と魂との接近のみ感じるのである。官能は眠っている。彼女は常に「女」であるけれども、それは抽象的である。・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫