・・・動もすればはやり勝ちな、一党の客気を控制して、徐に機の熟するのを待っただけでも、並大抵な骨折りではない。しかも讐家の放った細作は、絶えず彼の身辺を窺っている。彼は放埓を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ こう前置きをして、陶器師の翁は、徐に話し出した。日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠長な口ぶりで話し出したのである。「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この清水の観音様へ、願をかけた事・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・すると本多子爵は、私の足音が耳にはいったものと見えて、徐にこちらを振返ったが、やがてその半白な髭に掩われた唇に、ちらりと微笑の影が動くと、心もち山高帽を持ち上げながら、「やあ」と柔しい声で会釈をした。私はかすかな心の寛ぎを感じて、無言のまま・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・―― 陳は麦酒を飲み干すと、徐に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。「陳さん。いつ私に指環を買って下すって?」 女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。「その指環がなくなったら。」 陳は小銭を探りながら、・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 今までの事情を話した後、私の友人のKと云う医者は、徐にこう言葉を続けた。「お蓮は牧野が止めるのも聞かず、たった一人家を出て行った。何しろ婆さんなぞが心配して、いくら一しょに行きたいと云っても、当人がまるで子供のように、一人にしなけ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 直孝はじっと古千屋を見つめ、こういう問答を重ねた後、徐に最後の問を下した。「そちは塙のゆかりのものであろうな?」 古千屋ははっとしたらしかった。が、ちょっとためらった後、存外はっきり返事をした。「はい。お羞しゅうございます・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ 老紳士は考え考え、徐にこう云った。それから鼻眼鏡の位置を変えて、本間さんの顔を探るような眼で眺めたが、そこに浮んでいる侮蔑の表情が、早くもその眼に映ったのであろう。残っているウイスキイを勢いよく、ぐいと飲み干すと、急に鬚だらけの顔を近・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・それがすむと、道士は、徐に立って、廟の中へはいった。そうして、片手で李をさしまねきながら、片手で、床の上の紙銭をかき集めた。 李は五感を失った人のように、茫然として、廟の中へ這いこんだ。両手を鼠の糞と埃との多い床の上について、平伏するよ・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・そうしてその後には徐に一束四銭の札を打った葱の山が浮んで来る。と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃風が過ぎると共に、実生活のごとく辛辣な、眼に滲むごとき葱のにおいが実際田中君の鼻を打った。「御待ち遠さま。」 憐むべき田中君は、世に・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・そこで私は徐に立ち上って、「よく見ていてくれ給えよ。僕の使う魔術には、種も仕掛もないのだから。」 私はこう言いながら、両手のカフスをまくり上げて、暖炉の中に燃え盛っている石炭を、無造作に掌の上へすくい上げました。私を囲んでいた友人た・・・ 芥川竜之介 「魔術」
出典:青空文庫