・・・ところがある日葺屋町の芝居小屋などを徘徊して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣えたまま、もう火のはいった行燈の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 盛遠は徘徊を続けながら、再び、口を開かない。月明。どこかで今様を謡う声がする。 げに人間の心こそ、無明の闇も異らね、 ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。 下 夜、袈裟が帳台の外で、燈・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・勿論マルセイユの往来に、日本人の赤帽なぞが、徘徊しているべき理窟はない。が、夫はどう云う訳か格別不思議とも思わずに、右の腕を負傷した事や帰期の近い事なぞを話してやった。その内に酔っている同僚の一人が、コニャックの杯をひっくり返した。それに驚・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・ この多襄丸と云うやつは、洛中に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥部寺の賓頭盧の後の山に、物詣でに来たらしい女房が一人、女の童と一しょに殺されていたのは、こいつの仕業だとか申して居りました。その月毛に乗っていた女・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・さあこれが旦那様、目黒、堀ノ内、渋谷、大久保、この目黒辺をかけて徘徊をいたします、真夜中には誰とも知らず空のものと談話をしますという、鼻の大きな、爺の化精でございまして。」 八「旦那様、この辺をお通り遊ばしたこと・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 声を懸けて、戸を敲いて、開けておくれと言えば、何の造作はないのだけれども、止せ、と留めるのを肯かないで、墓原を夜中に徘徊するのは好心持のものだと、二ツ三ツ言争って出た、いまのさき、内で心張棒を構えたのは、自分を閉出したのだと思うから、・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ 一歳初夏の頃より、このあたりを徘徊せる、世にも忌わしき乞食僧あり、その何処より来りしやを知らず、忽然黒壁に住める人の眼界に顕れしが、殆ど湿地に蛆を生ずる如く、自然に湧き出でたるやの観ありき。乞食僧はその年紀三十四五なるべし。寸々に裂け・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ポン引が徘徊して酔漢の袖を引いているのも、ほかの路地には見当らない風景だ。私はこの横丁へ来て、料理屋の間にはさまった間口の狭い格子づくりのしもた家の前を通るたびに、よしんば酔漢のわめき声や女の嬌声や汚いゲロや立小便に悩まされても、一度はこん・・・ 織田作之助 「世相」
・・・何処を徘徊いていたのか、真蒼な顔色をしてさも困憊している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」「何に格別の事は御・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・馬や牛の群が吼えたり、うめいたりしながら、徘徊しだした。やがて、路傍の草が青い芽を吹きだした。と、向うの草原にも、こちらの丘にも、処々、青い草がちら/\しだした。一週間ほどするうちに、それまで、全く枯野だった草原が、すっかり青くなって、草は・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
出典:青空文庫