・・・「まあ、御待ちなさい。御前さんはそう云われるが、――」 オルガンティノは口を挟んだ。「今日などは侍が二三人、一度に御教に帰依しましたよ。」「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・「御前は銀の煙管を持つと坊主共の所望がうるさい。以来従前通り、金の煙管に致せと仰せられまする。」 三人は、唖然として、為す所を知らなかった。 七 河内山宗俊は、ほかの坊主共が先を争って、斉広の銀の煙管を・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・この様を見たる喜左衛門は一時の怒に我を忘れ、この野郎、何をしやがったと罵りけるが、たちまち御前なりしに心づき、冷汗背を沾すと共に、蹲踞してお手打ちを待ち居りしに、上様には大きに笑わせられ、予の誤じゃ、ゆるせと御意あり。なお喜左衛門の忠直なる・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・お傍医師が心得て、……これだけの薬だもの、念のため、生肝を、生のもので見せてからと、御前で壺を開けるとな。……血肝と思った真赤なのが、糠袋よ、なあ。麝香入の匂袋ででもある事か――坊は知るまい、女の膚身を湯で磨く……気取ったのは鶯のふんが入る・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ ごぼりと咳いて、「御前じゃ。」 しゅッと、河童は身を縮めた。「日の今日、午頃、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃巌へ。――神職様、小鮒、鰌に腹がくちい、貝も小蟹も欲しゅう思わんでございましゅ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ と低いが壁天井に、目を上げつつ、「角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……熟と天頂の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 向島の言問の手前を堤下に下りて、牛の御前の鳥居前を小半丁も行くと左手に少し引込んで黄蘗の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ その老臣は、謹んで天子さまの命を奉じて、御前をさがり、妻子・親族・友人らに別れを告げて、船に乗って、東を指して旅立ちいたしましたのであります。その時分には、まだ汽船などというものがなかったので、風のまにまに波の上を漂って、夜も昼も東を・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・ かれ男爵、ただ酒を飲み、白眼にして世上を見てばかりいた加藤の御前は、がっかりしてしまった。世上の人はことごとく、彼ら自身の問題に走り、そがために喜憂すること、戦争以前のそれのごとくに立ち返った。けれども、男は喜憂目的物を失った。すなわ・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・見かえればかしこなるは哀れを今も、七百年の後にひく六代御前の杜なり。木がらしその梢に鳴りつ。 落葉を浮かべて、ゆるやかに流るるこの沼川を、漕ぎ上る舟、知らずいずれの時か心地よき追分の節おもしろくこの舟より響きわたりて霜夜の前ぶれをか為し・・・ 国木田独歩 「たき火」
出典:青空文庫