・・・そう言って微笑む郵便屋の鼻の先には、雨のしずくが光っていた。二十二、三の頬の赤い青年である。可愛い顔をしていた。「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」「ええ、そうです。」青木大蔵というのは、私の、本来の戸籍名である。「似ていま・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・夕焼は、それを諸君に訴えて、そうして悲しく微笑むのである。そのとき諸君は夕焼を、不健康、頽廃、などの暴言で罵り嘲うことが、できるであろうか。できるとも、と言下に答えて腕まくり、一歩まえに進み出た壮士ふうの男は、この世の大馬鹿野郎である。君み・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・やがて冥途とやらへ行って、いや、そこでもだまって微笑むのみ、誰にも言うな。あざむけ、あざむけ、巧みにあざむけ、神より上手にあざむけ、あざむけ。 もののみごとにだまされ給え。人、七度の七十倍ほどだまされてからでなければ、まことの愛の微・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・またこれを言っているあいだ口をまげたり、必要以上に眼をぎらぎらさせたりせずにほとんど微笑むようにしていたいものだと、その練習をも怠らなかった。 これで準備はできた。いよいよ喧嘩の修行であった。次郎兵衛は武器を持つことをきらった。武器の力・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 大人になりきった人は、少年から青年期の無思慮な思い出にたいしてさえも微笑むのだけれども、いままさに十七歳であり、少年と青年とのあいなかばした成長の過程にあるものが、直情径行に願うことは何であろう。それは、ひたすらに一人前の青年であろう・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・私が歓びに打ち震え 見つめればおなじ悦びに 眼を瞠り 微笑む。夜のとも昼のとも そして わが一生の友、原稿紙。一ひら 一ひら、お前を、市井の文具店の蔵から迎えよせ私の周囲には、次第に多くのまといが出来た。・・・ 宮本百合子 「五月の空」
出典:青空文庫