・・・そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである。 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・稚心にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、心から思うたことを今も記憶している。近くは三十七年の夏、悲惨なる旅順の戦に、ただ一人の弟は敵塁深く屍を委して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消失せない・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・あなたが次第に名高くおなりになるのを、わたくしは蔭ながら胸に動悸をさせて、正直に心から嬉しく存じて傍看いたしていました。それにひっきりなしに評判の作をお出しになるものですから、わたくしが断えずあなたの事を思わせられるのも、余儀ないわけでござ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・この野原には、学校なんかあるわけはなし、これはきっと俄に立ちどまった為に、私の頭がしいんと鳴ったのだと考えても見ましたが、どうしても心からさっきの音を疑うわけには行きませんでした。それどころじゃない、こんどは私は、子供らのがやがや云う声を聞・・・ 宮沢賢治 「茨海小学校」
・・・ わかりきった事の様だけれ共、ほんとうに心からつくづくと思うのは自分がそれをする事の出来ない様な境遇になってからである。「抜毛」のないものには、毛の抜けない気持よさが分らない――病気を生れて一度も仕た事のないものは達者で生きて居る有・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心から感じた。女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人菩提を弔うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向をし・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「まことよ。仰せは道理におじゃる。妾とてなど……」「心からさならこの母もうれしいわ。見よ、のう、この匕首を。門出の時、世良田の刀禰が和女にこを残して再会の記念となされたろうよ。それを見たらよしない、女々しい心は、刀禰に対して出されま・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・一度、人は心から自分の手の平を合して見るが良い。とどの詰りはそれより無く、もし有ったところで、それは物があるということだけかも知れぬ。人人の認識というものはただ見たことだけだ。雑念はすべて誤りという不可思議な中で、しきりに人は思わねばならぬ・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・そのくせ弟の身の上は、心から可哀相でならない。しかしまたしては、「やっぱりそうなった方が、あいつのためには為合せかも知れない、どうせ病身なのだから」と思っては自分で自分を宥めて見るのである。そのうち寐入ってしまった。 ヴェロナ・ヴェッキ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ かの皮肉なバアナアド・ショオをして心からの讃美と狂喜とをなさしめたエレオノラ・デュウゼ。 僕はシモンズ氏によって今少しくこの慕わしい女優の芸術を讃美しようと思う。 デュウゼは世界のあらゆる女優よりも複雑な底のある性格をもってい・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫