・・・せめては代筆せよと仰せられ候間お言葉どおりを一々に書き取り申し候 必ず必ず未練のことあるべからず候 母が身ももはやながくはあるまじく今日明日を定め難き命に候えば今申すことをば今生の遺言とも心得て深く心にきざみ置かれたく候そなたが・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・にまでひろがるところの一般の倫理的なるものへの関心と心得とはカルチュアの中心題目といわねばならぬ。人生の事象をよろず善悪のひろがりから眺める態度、これこそ人格という語をかたちづくる中核的意味でなければならぬ。私はいかなる卓越した才能あり、功・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・握手と同時に現われる、相手の心を読むことを、彼は心得てしまった。 吉永がテーブルと椅子と、サモールとがある部屋に通されている時、武石は、鼻から蒸気を吐きながら、他の扉を叩いていた。それから、稲垣、大野、川本、坂田、みなそれぞれ二三分間お・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・悪性の料簡だ、劣等の心得だ、そして暗愚の意図というものだ。しかるに骨董いじりをすると、骨董には必ずどれほどかの価があり金銭観念が伴うので、知らず識らずに賤しくなかった人も掘出し気になる気味のあるものである。これは骨董のイヤな箇条の一つになる・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・市羽子板ねだらせたを胸三寸の道具に数え、戻り路は角の歌川へ軾を着けさせ俊雄が受けたる酒盃を小春に注がせてお睦まじいとおくびより易い世辞この手とこの手とこう合わせて相生の松ソレと突きやったる出雲殿の代理心得、間、髪を容れざる働きに俊雄君閣下初・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・そこは心得ているから安心しておいでよ。」と次郎は言った。 楽しい桃の節句の季節は来る、月給にはありつく、やがて新しい住居での新しい生活も始められる、その一日は子供らの心を浮き立たせた。末子も大きくなって、もう雛いじりでもあるまいというと・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その他、女性のあらゆる悪徳を心得ているつもりでいたのであります。女で無ければわからぬ気持、そんなものは在り得ない。ばかばかしい。女は、決して神秘でない。ちゃんとわかっている。あれだ。猫だ。と此の芸術家は、心の奥底に、そのゆるがぬ断定を蔵して・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・女の容色の事も、外に真似手のない程精しく心得ている。ポルジイが一度好いと云った女の周囲には、耳食の徒が集まって来て、その女は大幣の引手あまたになる。それに学問というものを一切していないのが、最も及ぶべからざる処である。うぶで、無邪気で、何事・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・こういう芸術を徳川時代の民間の卑賤な芸人どもはちゃんと心得ていたわけである。 生まれてはじめて見た人形芝居一夕のアドヴェンチュアのあとでのこれらの感想のくどくどしい言葉は、結局十歳の亀さんや、試写会における児童の端的で明晰なリマークに及・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・道太はちょっと板前の心得のありそうな老母の手つきを、からかい半分に眺めていた。「庖丁はさびていても、手が切れるさかえ」老母はそう言って、刃にさわって見ていた。 やがて弁当の支度を母親に任かして、お絹は何かしら黒っぽい地味な単衣に、ご・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫