・・・舎衛城の中でも最も貧しい、同時に最も心身の清浄に縁の遠い人々の一人である。 ある日の午後、尼提はいつものように諸家の糞尿を大きい瓦器の中に集め、そのまた瓦器を背に負ったまま、いろいろの店の軒を並べた、狭苦しい路を歩いていた。すると向うか・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・唯心を籠めて浄い心身を基督に献じる機ばかりを窺っていたのだ。その中に十六歳の秋が来て、フランシスの前に懺悔をしてから、彼女の心は全く肉の世界から逃れ出る事が出来た。それからの一年半の長い長い天との婚約の試練も今夜で果てたのだ。これからは一人・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 僕が迷信の深淵に陥っていた時代は、今から想うても慄然とするくらい、心身共にこれがために縛られてしまい、一日一刻として安らかなることはなかった。眠ろうとするに、魔は我が胸に重りきて夢は千々に砕かれる。座を起とうとするに、足あるいは虫を蹈・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 髯ある者、腕車を走らす者、外套を着たものなどを、同一世に住むとは思わず、同胞であることなどは忘れてしまって、憂きことを、憂しと識別することさえ出来ぬまで心身ともに疲れ果てたその家この家に、かくまでに尊い音楽はないのである。「衆生既・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・情事に浮身をやつすには心身共に老いを感じすぎているのである。私は若く美しい異性を前にして、あたかも存在せぬごとく、かすんでいることが多い。もっとも私とても三十三歳のひとり者であるから、若く美しい異性と肩を並べて夜の道を歩くという偶然の機会に・・・ 織田作之助 「髪」
・・・一手に、九四歩突きなどという奇想天外の、前代未聞の、横紙破りの、個性の強い、乱暴な手を指すという天馬の如き溌剌とした、いやむしろ滅茶苦茶といってもよいくらいの坂田の態度を、その頃全く青春に背中を向けて心身共に病み疲れていた私は自分の未来に擬・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・験した人間のたましいの深部をあまねく人類に宣伝的に感染させようとしたものから、哲学的の思索、科学的の研究、芸文的の制作、厚生実地上の試験から、近くは旅行記や、現地報告の類にいたるまで、ことごとく他人の心身の労作にならぬものはない。そしてその・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・切詰めた予算だけしか有しておらぬことであるから、当人は人一倍困悶したが、どうも病気には勝てぬことであるから、暫く学事を抛擲して心身の保養に力めるが宜いとの勧告に従って、そこで山水清閑の地に活気の充ちた天地の気を吸うべく東京の塵埃を背後にした・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・ 今において回顧すれば、その頃の自分は十二分の幸福というほどではなくとも、少くも安康の生活に浸って、朝夕を心にかかる雲もなくすがすがしく送っていたのであった。 心身共に生気に充ちていたのであったから、毎日の朝を、まだ薄靄が村の田の面・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・し、物質的には公衆衛生の知識がいよいよ発達し、一切の公共の設備が安固なのはもとより、各個人の衣食住もきわめて高等・完全の域に達すると同時に、精神的にもつねに平和・安楽であって、種々の憂悲・苦労のために心身をそこなうがごときことのない世の中と・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫