・・・両家は必死になって婚儀の準備に忙殺されている。 その愈々婚礼の晩という日の午後三時頃でもあろうか。村の小川、海に流れ出る最近の川柳繁れる小陰に釣を垂る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通う・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。彼等は、ヒヤッとした。栗島は、いつまでも太股がブル/\慄えるのを止めることが出来なかった。軍刀は打ちおろされたのであった。 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身か・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊へとんで帰った。「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」 営門で捧げ銃をした歩哨は何か怒声をあびせかけられた。 衛兵司令は、・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・豚は、一としきり一層はげしく、必死にはねた。後藤はまた射撃した。が、弾丸はまた外れた。「これが、人間だったら、見ちゃ居られんだろうな。」誰れかゞ思わず呟いた。「豚でも気持が悪い。」「石塚や、山口なんぞ、こんな風にして、×××ちまった・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 女の唇は堅く結ばれ、その眼は重々しく静かに据り、その姿勢はきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気に満されたり。男は萎れきったる様子になりて、「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあ汝の運は汝に任せてえ、おらが横車を云おう気は・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・安富は細川の家では大したもので、応仁の恐ろしい大乱の時、敵の山名方の幾頭かの勇将軍が必死になって目ざして打取って辛くも悦んだのは安富之綱であった。又打死はしたが、相国寺の戦に敵の総帥の山名宗全を脅かして、老体の大入道をして大汗をかいて悪戦さ・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
芸術家というものは、つくづく困った種族である。鳥籠一つを、必死にかかえて、うろうろしている。その鳥籠を取りあげられたら、彼は舌を噛んで死ぬだろう。なるべくなら、取りあげないで、ほしいのである。 誰だって、それは、考えて・・・ 太宰治 「一燈」
・・・いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気を創る事に努力する。そうして、客とわかれた後、私は疲労によろめき、お金の事、道徳の事、自殺の事を考える。い・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・決してそんな。」必死に打ち消し、「お願いがございます。ひとつ、弟に説いてやって下さるわけには、――」「僕が、かい。何を説くんだ。」 とみは、途方にくれた人のように窓外の葉桜をだまって眺めた。男爵も、それにならって、葉桜を眺めた。にが・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日六晩叩いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻のように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。 健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るの・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫