・・・、家は佐竹ッ原だという――いつもこの娘と連立って安宅蔵の通を一ツ目に出て、両国橋をわたり、和泉橋際で別れ、わたくしはそれから一人とぼとぼ柳原から神田を通り過ぎて番町の親の家へ、音のしないように裏門から忍び込むのであった。 毎夜連れ立って・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ これから病人や死体が、そこへ入るにしても、空気は、楕円形の三尺に二尺位の、ガットの穴から忍び込むより仕方がなかった。 そんな小さな穴からは、丈夫な生きた人間が「一人」で、縄梯子を伝って降りるより外に、方法は無かった。 病人を板・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ お絹に、遺品として蛇を貰ったところと、お里の家へ忍び込む気になったところまで、感情の連絡に乏しい感じはなかったろうか。 私の心持から見ると、此「両国の秋」と云う芝居は脚本の根本に、何かお絹なりお君なりを、充分活かし切らないものがあ・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・大事な貴いところへ忍び込むようにそーっともう一足入って、彼は顔を極度の用心深さで花に近づけた。九分通り咲きこぼれた大輪の牡丹は、五月の午前十一時過ぎの太陽に暖められ頭痛がするほど強い芳香を四辺に放っている。幸雄は蘂に顔を押し埋めつつその香を・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫