・・・そこでとうとう盗人のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっきから透き見をしていたのです。 しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・して見れば彼の馬の脚がじっとしているのに忍びなかったのも同情に価すると言わなければならぬ。…… この解釈の是非はともかく、半三郎は当日会社にいた時も、舞踏か何かするように絶えず跳ねまわっていたそうである。また社宅へ帰る途中も、たった三町・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・それにしても聖処女によって世に降誕した神の子基督の御顔を、金輪際拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえりを打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。 ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱は棚のよう・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・私がこれ以上諸君から収めるのは、さすがに私としても忍び難いところです。それから開墾当時の地価と、今日の地価との大きな相違はどうして起こってきたかと考えてみると、それはもちろん私の父の勤労や投入資金の利子やが計上された結果として、価格の高まっ・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・ 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命よりは便に・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・洗濯の音は必ず外まで聞えるはずであるから、省作がそこまでくれば躊躇するわけはない。忍びよる人の足音をも聞かんと耳を澄ませば、夜はようやく更けていよいよ静かだ。 表通りで夜番の拍子木が聞える。隣村らしい犬の遠ぼえも聞える。おとよはもはやほ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・それよりはむしろ小悪微罪に触れるさえ忍び得られないで独りを潔うする潔癖家であった。濁流の渦巻く政界から次第に孤立して終にピューリタニックの使命に潜れるようになったは畢竟この潔癖のためであった。が、ドウしてYに対してのみ寛大であったろう。U氏・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 最も正直な人間は、誠実なる人間は、この現実を空しく目睹するに忍びなかろうと思う。そして、凝視して、飽迄もその真相を突きとめ、原因を究めようとするにちがいない。 この誠実と感激と良心とから、筆をとるでなければ、私達民衆の仲間でもなけ・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・貴嬢はわが願いを入れ、忍びて事の成り行きを見ざるべからず、しかも貴嬢、事の落着は遠くもあるまじ、次を見候え。――手荒く窓を開きぬ。地平線上は灰色の雲重なりて夕闇をこめたり。そよ吹く風に霧雨舞い込みてわが面を払えば何となく秋の心地せらる、ただ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・思いが深かっただけ傷は深く、軽い慰めの語はむしろ心なき業であるが、しかも忍び通さねばならないのだ。これを正しく忍び通した者は一生動かない精神的態度の純潤性と深みとを得る。死なれた場合が最も悲しみが永い。しかしこれとても時と摂理のいやしの力が・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫