・・・ 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。「今夜ですか?」「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」 印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・私たち三人は土用波があぶないということも何も忘れてしまって波越しの遊びを続けさまにやっていました。「あら大きな波が来てよ」 と沖の方を見ていた妹が少し怖そうな声でこういきなりいいましたので、私たちも思わずその方を見ると、妹の言葉通り・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・そんな工合に、目や胸を見たり、金色の髪の沢を見たりしていて、フレンチはほとんどどこへ何をしに、この車に乗って行くのかということをさえ忘れそうになっている。いやいやただ忘れそうになったと思うに過ぎない。なに、忘れるものか。実際は何もかもちゃん・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・踊ることをも忘れて、ついと行ってしまうのである。「おやまあ」と貴夫人が云った。 それでも褐色を帯びた、ブロンドな髪の、残酷な小娘の顔には深い美と未来の霊とがある。 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違って、風雨に晒された跡のように荒・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・それは昔余所の犬のするのを見て、今までは永く忘れて居たことであった。クサカはそれをやる気になって、飛びあがって、翻筋斗をして、後脚でくるくる廻って見せた。それも中々手際よくは出来ない。 レリヤはそれを見て吹き出して、「お母あさんも皆も御・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・財布さえ忘れなけや可い。ひと足ひと足うまい物に近づいて行くって気持は実に可いね。A ひと足ひと足新しい眠りに近づいて行く気持はどうだね。ああ眠くなったと思った時、てくてく寝床を探しに出かけるんだ。昨夜は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠っ・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 正にこの声、確にその人、我が年紀十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない年紀上の女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間一度もその顔を見なかった、絶代の佳人である。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・子どもらは九十九里七日の楽しさを忘れかねてしばしば再遊をせがんでやまない。お光さんからその後消息は絶えた。 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・「それが、さ、君忘れもせぬ明治三十七年八月の二十日、僕等は鳳凰山下を出発し、旅順要塞背面攻撃の一隊として、盤龍山、東鷄冠山の中間にあるピー砲台攻撃に向た。二十日の夜行軍、翌二十一日の朝、敵陣に近い或地点に達したのやけど、危うて前進が出来・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の縞柄から金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫