・・・書かないでおいたってあんなうつくしい景色は忘れない。それからひるは過燐酸の工場と五稜郭。過燐酸石灰、硫酸もつくる。五月廿日 *いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこさ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・そして、現代の常識として忘れてならぬ一つのことは、愛にも階級性があるという、無愛想な真実です。〔一九四八年二月〕 宮本百合子 「愛」
・・・例年簷に葺く端午の菖蒲も摘まず、ましてや初幟の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。 殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・あれをしていると、大切な事を忘れてしまう。 ツァウォツキイはようよう鉄道の堤に攀じ上った。両方の目から涙がよごれた顔の上に流れた。顔の色は蒼ざめた。それから急にその顔に微笑の影が浮かんで、口から「ユリア、ユリア」と二声の叫が洩れた。ユリ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・和女はよも忘れはせまい、和女には実の親、おれには実の夫のあの民部の刀禰がこたび二の君の軍に加わッて、あッぱれ世を元弘の昔に復す忠義の中に入ろうとて、世良田の刀禰もろとも門出した時、おれは、こや忍藻、おれは何して何言うたぞ。おれが手ずから本磨・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「ふむ、それは気の毒なことやなア、長いこと見んで、私ゃもうすっかり見忘れて了うたわ。何年程になるなア?」「九年や。」「もうそんなになるかいな、幾つやな、そうすると四十?」「四十二や。」「四十二か。まあ厄年やして。」「・・・ 横光利一 「南北」
・・・まじめで静かだったもんだから、近処のものがあたりまえの子供のあどけなく可愛ところがないといい/\しましたが、どうしたものか奥さまは僕を可愛やとおっしゃらぬ斗りに、しっかり抱〆て下すったことの嬉しさは、忘れられないで、よく夢に見い見いしました・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・としてふるまうことを忘れてはならない。それができないのは弱いからです。愛が足りないからです。 私は自分の仕事のために愛する者の生活をいくらかでも犠牲にすることを恥じます。この犠牲を甘んじて受けるのは、取りもなおさず、自分の弱さを是認する・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫