・・・が、彼等の菩提を弔っている兵衛の心を酌む事なぞは、二人とも全然忘却していた。 平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃を合せながら、心静にその日を待った。今はもう敵打は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、た・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そうしてまた、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味った事であろう。彼は己を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・たとい君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船の石火矢の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンテ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・保吉もまた二十年前には娑婆苦を知らぬ少女のように、あるいは罪のない問答の前に娑婆苦を忘却した宣教師のように小さい幸福を所有していた。大徳院の縁日に葡萄餅を買ったのもその頃である。二州楼の大広間に活動写真を見たのもその頃である。「本所深川・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾が、・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・題とか、失業問題とかいうような、当面の問題に関しては、何人もこれを社会問題として論議し、対策をするけれど、老人とか、児童とかのように、現役の人員ならざるものに対しては、それ等の利害得失について、これを忘却しないまでも、兎角、等閑に附され勝で・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・まして人間は忘却と云うものを有っている。忘却は総てのものに……永久の苦しみも喜びも、その人の人生観を一変させるほどの失恋の苦悩でも……を、やはり時が経てば、昔のそれのようにさせない。最愛の子を失うた親の悲しみも、月日が経てば忘れ得る。総ては・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・しかし、隠匿じゃない、忘却紙幣だ。入れたまま忘れてしまっていたんだ。どっちにしても、旧紙幣だから、反古同然だ」「どうしてまたこんな所へ入れて忘れたんだ」「前の細君が生きてた頃に入れたのだから、忘れる筈だよ、実はあの頃、まだ競馬があっ・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・傷をいやすレーテの川、忘却というものも自然のたまものだ。絶対的にのみ考えなくてもいい。童貞の青年といえども、すでに自慰を知らぬものはなく、肉体的想像力を持たぬものもあり得ない。全然とり返しがつかぬという考え方はこれは天国的なものでなく、悪魔・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そこには苦痛を忘却さしてくれるいわゆるレーテの川があり、歳月はいつしか傷を癒やしてまた新しい情熱を生み出してくれるものである。軍人の未亡人の如きも遺児を育て、遺児なきときは社会事業に捧げ、あるいは場合によっては再婚するというようなことも決し・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
出典:青空文庫