・・・見としゃれたのでありますが、紅梅、白梅、ほつほつと咲きほころびつつましく艶を競い、まことに物静かな、仙境とはかくの如きかと、あなた、こなた、夢に夢みるような思いにてさまよい歩き、ほとんど俗世間に在るを忘却いたしふと眼前にあらわれたるは、幽玄・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・けれども、私はおしまいに牛乳のような純白な焔を見たとき、ほとんど我を忘却した。「おや、この子はまたおしっこ。おしっこをたれるたんびに、この子はわなわなふるえる。」誰かがそう呟いたのを覚えている。私は、こそばゆくなり胸がふくれた。それはきっと・・・ 太宰治 「玩具」
・・・朝起きたときには、全部忘却して居りましたが、今夜、この切り抜きがまた貴方を思い出させました。理由は、私にも、よく呑みこめませぬが、とにかくお送り申します。――『慢性モヒ中毒。無苦痛根本療法、発明完成。主効、慢性阿片、モルヒネ、パビナール、パ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・が蜘蛛の巣のように四通八達していて、路地の両側の家々の、一尺に二尺くらいの小窓小窓でわかい女の顔が花やかに笑っているのであって、このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすっと抜け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了せた罪人のように美しく落ち・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・しかしこの際これらの映画製作者は一つのだいじな事を忘却しているように見える。それは写真器械というものと人間の目というものの間に存する一つの越え難き溝渠の存在を忘れているように私には思われることである。 急速な運動を人間の目で見る場合には・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・という事実だけを忘却しているのである。一方ではまた、大小方円の見さかいもつかないほどに頭が悪いおかげで大胆な実験をし大胆な理論を公にしその結果として百の間違いの内に一つ二つの真を見つけ出して学界に何がしかの貢献をしまた誤って大家の名を博する・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・たとえばAかBかのほかには何物も有り得ないという仮定のもとに或る人間の問題を取り扱っている際に、ある物質界の現象を学ぶことによって忽然として、他にCの可能性の存在を忘却していたということに気がつくことがしばしば有りうるであろう。 誤った・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・このようにして、白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行なわれた殺人事件は不思議にも司直の追求を受けずまた市人の何人もこれをとがむることなしにそのままに忘却の闇に葬られてしまった。実に不可解な現象と言わなければなるまい。 それはとにかく、実に・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・それを知り出したのは、どう云う機会であったか今は忘却してしまった。とにかく入社してもしばらくの間は顔を合わせずにいた。しかも長谷川君の家は西片町で、余も当時は同じ阿部の屋敷内に住んでいたのだから、住居から云えばつい鼻の先である。だから本当を・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・欠いているのはただ含んでおらんと云うまでで、打ち壊すとなると明かにその理想に違背しているのですからして、この場合には作家の標準にした理想が、すべての他を忘却せしめ得るほどな手際でうまく作物にあらわれておらねばならん。けれどもこれは天才でもは・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫