・・・自分がきめてもいいから楽ができなかった時にすぐ機鋒を転じて過去の妄想を忘却し得ればいいが、今のように未来に御願い申しているようではとうていその未来が満足せられずに過去と変じた時にこの過去をさらりと忘れる事はできまい。のみならず報酬を目的に働・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・次第次第に高きを勉めて止まるを知らず、俗世界はいぜんとして卑く、教育法はますます高く、学校はあたかも塵俗外の仙境にして、この境内に閉居就学すること幾年なれば、その年月の長きほどにますます人間世界の事を忘却して、ひそかにこれを軽蔑するがゆえに・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・読むお経の文句を聞くが如く、其意味を問わずして其声を耳にするのみ、果して其意味を解釈するも事に益することなきは実際に明なる所にして、例えば和文和歌を講じて頗る巧なりと称する女学史流が、却て身辺の大事を忘却して自身の病に医を択ぶの法を知らず、・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・人事の変遷、長き歳月を経る間には、子孫相続の主義はただに口実として用いらるるのみならず、早く既にその主義をも忘却し、一男にして衆婦人に接するは、あたかも男子に授けられたる特典の姿となり、以て人倫不取締の今日に至りしは、国民一家の不幸に止まら・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・犀星氏は、自身の如く文学の砦にこもることを得たものはいいが、まだ他人の厄介になって文学修業なんか念願しているような青年共は、この際文学なんかすてて戦線にゆけ、と、自身の永く苦しかったその時代をさながら忘却失念したような壮々しい言をはいていら・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・この二つの作品は、日本のすべての人々にとって忘却することのできない治安維持法と戦争のために犠牲とされた理性と善意のために捧げられる。生けると死せるとにかかわらず、この二つの悪虐な力によって破壊を蒙った人間性の恢復と未来の勝利のためにささげら・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
・・・ 暫く話してから、西日の照る往来に出、間もなく、自分は、アタールという名を忘却した。 それから、クマラスワミーとは友情が次第に濃やかになり、十月頃彼が帰るまで、我々は、ヨネ・野口をおいては親しい仲間として暮した。種々な恋愛問題なども・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・ことをその画筆で示したケーテ・コルヴィッツを忘却することは不可能である。芸術家としてのそのような存在が記念碑的でなかったといい得る者はないはずである。〔一九四一年三月。一九四六年六月補〕 追記 一九五〇年二月、新海覚雄氏によって・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・に於けるが如く、プロットの進行に時間観念を忘却させ、より自我の核心を把握して構成派的力学形式をとることに於て、表現派とダダイズムは例えば今東光氏の諸作に於けるが如く、石浜金作氏の近作に於けるが如く、時間空間の観念無視のみならず一切の形式破壊・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・の重荷に押しつぶされるような人間は、畢竟滅ぶべき運命を担っているのであった。忘却の甘みに救われるような人間は、「生きた死骸」になるはずの頽廃者に過ぎなかった。潰滅よりもさらに烈しい苦痛を忍び、忘却が到底企て及ばざる突破の歓喜を追い求むる者こ・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫