・・・温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、「お疲れさんで……」 温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡麻塩である。 こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・はてな、これは天幕の内ではない、何で俺は此様な処へ出て来たのかと身動をしてみると、足の痛さは骨に応えるほど! 何さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても重傷か擦創かと、傷所へ手を遣ってみれば、右も左もべッとりとした血。触れば益々痛・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・と、耕吉は答えるほかなかった。そして、それで想いだしたがといった風で上機嫌になって、「じつはね、この信玄袋では停車場へ送ってきた友だちと笑ったことさ。何しろ『富貴長命』と言うんだからね。人間の最上の理想物だと言うんだ。――君もこの信玄袋・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・と甲は書籍を拾い上げて、何気なく答える。 乙は其を横目で見て、「まさか水力電気論の中には説明してあるまいよ。」「無いとも限らん。」「あるなら、その内捜して置いてくれ給え。」「よろしい。」 甲乙は無言で煙草を喫っている・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・何故ならこれに答えるためには、その場合の事情の十全な認識、行為のあらゆる結果の十全なる予測が必要であるが、かかる知見は神ならぬ人間には存しないからだ。かかる意味で、道徳上絶対に妥当な意志決定はありあたわぬ。しかしおよそ道徳とは何か、道徳的な・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・と問うた。驚くべき処世の修行鍛錬を積んだ者で無くては出ぬ語調だった。女は其の調子に惹かれて、それではまずいので、とは云兼ぬるという自意識に強く圧されていたが、思わず知らず「ハ、ハイ」と答えると同時に、忍び音では有るが激しく泣出し・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・エヘンとせき払いをすると、向う端で誰かゞ、エヘンと答える。それから時には肱で、壁をたゝいて、合図をした。 そのコンクリートの壁には、看守の目を盗んで書いたらしく、泥や――時には、何処から手に入れるものか白墨で「共」という字や、中途半端な・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・とよ。」 何かよい事でも期待するように、次郎は弟や妹を催促した。火鉢の周囲には三人の笑い声が起こった。「だれだい、負けた人は。」「僕だ。」と答えるのは三郎だ。「じゃんけんというと、いつでも僕が貧乏くじだ。」「さあ、負けた人は・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ これこそはそのわかいおかあさんにはいちばんつらい問いであるので、答えることができませんかった。おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。 ミシンはすこし損じてはいますが、それでも縫い進み・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・窓は答える筈はなかった。 嘉七は立って、よろよろトイレットのほうへ歩いていった。トイレットへはいって、扉をきちんとしめてから、ちょっと躊躇して、ひたと両手合せた。祈る姿であった。みじんも、ポオズでなかった。 水上駅に到着したのは、朝・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫