・・・眼を瞑ったようなつもりで生活というものの中へ深入りしていく気持は、時としてちょうど痒い腫物を自分でメスを執って切開するような快感を伴うこともあった。また時として登りかけた坂から、腰に縄をつけられて後ざまに引き下されるようにも思われた。そうし・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・これが芸術の真の吾等に与える快感であろう。私は、この権威ある快感を何よりも尊く嬉しく思うのである。 私は、さま/″\の忘れられた懐しい夢を、もう一度見せてくれる、また心を、不可思議な、奥深い怪奇な、感情の洞穴に魅しくれる、此種の芸術に接・・・ 小川未明 「忘れられたる感情」
・・・なんだい、継母じゃないかという眼で玉子を見て、そして、大宝寺小学校へ来年はいるという年ごろの新次を掴えて、お前は継子だぞと言って聴かせるのに、残酷めいた快感を味っていた。浜子のいる時分、あんなに羨しく見えた新次が今ではもう自分と同じ継子だと・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・払戻の窓口へさし込んだ手へ、無造作に札を載せられた時の快感は、はじめて想いを遂げた一代の肌よりもスリルがあり、その馬を教えてくれた作家にふと女心めいた頼もしさを感じながら、寺田はにわかにやみついて行った。 小心な男ほど羽目を外した溺れ方・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・そして、自分を汚なくしながら、自虐的な快感を味わっているようだった。 しかし、彼とても人並みに清潔に憧れないわけではない。たとえば、銭湯が好きだった。町を歩いていて銭湯がみつかると、行き当りばったりに飛び込んで、貸手拭で汗やあぶらや垢を・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・の理由で闇に葬られるかも知れないと思ったが、手錠をはめられた江戸時代の戯作者のことを思えば、いっそ天邪鬼な快感があった。デカダンスの作家ときめられたからとて、慌てて時代の風潮に迎合するというのも、思えば醜体だ。不良少年はお前だと言われるとも・・・ 織田作之助 「世相」
・・・おれは別れることにこんなに悲しんでいるのだという姿を、女にも自分にも見せて、自虐的な涙の快感に浸っていたのだろう。泣いている者が一番悲しんでいるわけではないのだ。 しかし泣けない私たちが憧れるのは、とにもかくにも泣けた青春時代であろう。・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 謙遜は美徳であると知っていても、結局は己惚れの快感のもつ誘惑に負けてしまうのが、小人の浅ましさだろうか。謙遜の美徳すら己惚れから発するものだと、口の悪いラ・ロシュフコオあたりは言いそうである。僕とてご多分に洩れず、相応の己惚れである。・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・鋭い悲哀を和らげ、ほかほかと心を怡します快感は、同時に重っ苦しい不快感である。この不快感は日光浴の済んだあとなんとも言えない虚無的な疲れで病人を打ち敗かしてしまう。おそらくそれへの嫌悪から私のそうした憎悪も胚胎したのかもしれないのである。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・それを知る度におげんはある哀しい快感をさえ味わった。漠然とした不安の念が、憂鬱な想像に混って、これから養生園の方へ向おうとするおげんの身を襲うように起って来た。町に遊んでいた小さな甥達の中にはそこいらまで一緒に随いて来るのもあった。おげんは・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫