・・・と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。句意も、良雄が今感じている満足と変りはない。「やはり本意を遂げたと云う、気のゆるみがあるのでございましょう。」「さようさ。それもありましょう。」 忠左衛門は、手もとの煙管をとり上げて・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・――そんな怪しげな考えがどうしても念頭を離れないのです。殊に今の洋服を着た菊五郎などは、余りよく私の友だちに似ているので、あの似顔絵の前に立った時は、ほとんど久闊を叙したいくらい、半ば気味の悪い懐しささえ感じました。どうです。御嫌でなかった・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・と云う事も、彼の念頭には上っていた。が、変があるにしてもそれは単に、「家」を亡すが故に、大事なのではない。「主」をして、「家」を亡さしむるが故に――「主」をして、不孝の名を負わしむるが故に、大事なのである。では、その大事を未然に防ぐには、ど・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・しかし、私の事は始終念頭にあったでございましょう。あるいは私とどこかへ一しょに行く事を、望んで居ったかも知れません。これが妻のような素質を持っているものに、ドッペルゲンゲルの出現を意志したと、同じような結果を齎すと云う事は、考えられない事で・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・妻にしたい、――わたしの念頭にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒しても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすれ・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ 私のいった第一の種類に属する芸術家は階級意識に超越しているから、私の提起した問題などはもとより念頭にあろうはずがない。その人たちにとっては、私の提議は半顧の価値もなかるべきはずのものだ。私はそれほどまでに真に純粋に芸術に没頭しうる芸術・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・ 今は最う、さっきから荷車が唯辷ってあるいて、少しも轣轆の音の聞えなかったことも念頭に置かないで、早くこの懊悩を洗い流そうと、一直線に、夜明に間もないと考えたから、人憚らず足早に進んだ。荒物屋の軒下の薄暗い処に、斑犬が一頭、うしろ向に、・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・それ故大学を卒業して学士になろうなどという考は微塵もなく、学士というものがどれほどエライものであるか何かそんな事は一向念頭になかった。であるから『書生気質』や『妹と背鏡』を見て、文学士などというものは小説が下手なものだと思ったばかりであるが・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・雲を見、その下に横わる曠野を想い、流るゝ河を眼に描き、さらに生活する人々を考える時、郷愁豊かなる民謡の自ら念頭に浮ぶを覚える。永遠に、人は、土を慕い、自由を求めてやまないのだ。一切の虚偽を破壊するものは、常に、心の底に流れる、この単純化のロ・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
・・・かねたが、加藤男爵の事についてかねていくらか考えてみた事のあるので、「そうですねえ、まるきりがっかりしないでもないだろうと思う、というわけは、戦争最中はお互いにだれでも国家の大事だから、朝夕これを念頭に置いて喜憂したのが、それがおやめに・・・ 国木田独歩 「号外」
出典:青空文庫