・・・で、一体君は、そうしていて些とも怖いと思うことはないかね?」「そりゃ怖いよ。何も彼も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活というものを考えていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さっぱ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ はて恐いな。お前に恨まれたらば眠くなって来た。と善平はそのまま目を塞ぐ。あれお休みなさってはいやですよ。私は淋しくっていけませんよ。と光代は進み寄って揺り動かす。それなら謝罪ったか。と細く目を開けば、私は謝罪るわけはありませぬ。父様こ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・突然明い所へ出ると、少女の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、一は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を覚えて恐いとも哀しいとも言いようのない思が胸に塞えてちょうど、鉛の塊が・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・饂飩屋も、お湯屋も、煙草屋も、商売の一寸した手落ちにケチをつけられて罰金沙汰にせられるのが怖い。そこで、スパイに借られ、食われたものは、代金請求もよくせずに、黙って食われ損をしているのだ。「山の根へ薪を積むとて行ってるんだよ。」宗保が気・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・先の内はこんなおまえじゃあなかったけれどだんだんに酷い人におなりだネエ、黙々で自分の思い通りを押通そうとお思いのだもの、ほんとにおまえは人が悪い、怖いような人におなりだよ。でもおあいにくさまだが吾家の母様はおまえの心持を見通していらしって、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・お君の夫がこの工場から抜かれて行ってから、工場主は恐いものがいなくなったので、勝手なことを職工達に押しつけようとしていた。首切り、それはもはやお君一人のことではなかった。――お君は面会に行った帰りに、皆の集まっている所へ行って、夫に会って来・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・とおげんは声を低くして、「この養生園には恐い奥様がいるぞや。患者の中で、奥様が一番こわい人だぞや。多分お前も廊下で見掛けただらず。奥様が犬を連れていて、その犬がまた気味の悪い奴よのい。誰の部屋へでも這入り込んで行く。この部屋まで這入って来る・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・という題を与えられて、地震雷火事親爺、それ以上に怖い戦争が起ったなら先ず山の中へでも逃げ込もう、逃げるついでに先生をも誘おう、先生も人間、僕も人間、いくさの怖いのは同じであろう、と書いた。此の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・しかし実際非常に怖い思いをしたので、そのときに眼底に宿った海岸と海水浴場の光景がそのままに記憶の乾板に焼付けられたようになって今日まで残っているものと思われる。 それはとにかく、明治十四年頃にたとえ名前は「塩湯治」でも既に事実上の海水浴・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐い? 世界のどこにでもある。しかるに狭量神経質の政府は、ひどく気にさえ出して、ことに社会主義者が日露戦争に非戦論を唱うるとにわかに圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫