・・・すると婆さんは驚きでもするかと思いの外、憎々しい笑い声を洩らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。「人を莫迦にするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思っているのだえ。私はまだお前に欺される程、耄碌はしていない心算だよ。早速お前を父・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。 告白 完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。 ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・女の来ようは思いの外早い事も腹の立つほどおそい事もあった。仁右衛門はだだっ広い建物の入口の所で膝をだきながら耳をそばだてていた。 枝に残った枯葉が若芽にせきたてられて、時々かさっと地に落ちた。天鵞絨のように滑かな空気は動かないままに彼れ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、「ええ、さようならばお静に。」「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・その風采、高利を借りた覚えがあると、天窓から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。 店の透いた時は、そこらの小児をつかまえて、「あ、然じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺を寄せて、髯の上を撫で下げ撫で下げ、滑・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 八 高が気病と聞いたものが、思いの外のお雪の様子、小宮山はまず哀れさが先立って、主と顔を見合せまする。 介添の女はわざと浮いた風で、「さあ御縁女様。」 と強く手を引いて扶け入れたのでありまする。お雪・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 思いの外に早く用が足りたし、日も昇りかけたが、蜩はまだ思い出したように鳴いてる、つくつくほうしなどがそろそろ鳴き出してくる、まだ熱くなるまでには、余程の間があると思って、急に思いついて姪子の処へ往った。 お町が家は、松尾の東はずれ・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ところが社員は恐る恐る刺を通じて早速部屋に通され、粛々如として恭やしく控えてると、やがてチョコチョコと現われたは少くも口髯ぐらい生やしてる相当年配の紳士と思いの外なる極めて無邪気な紅顔の美少年で、「私が森です」と挨拶された時は読売記者は呆気・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・折から閣員の一人隈山子爵が海外から帰朝してこの猿芝居的欧化政策に同感すると思いの外慨然として靖献遺言的の建白をし、維新以来二十年間沈黙した海舟伯までが恭謹なる候文の意見書を提出したので、国論忽ち一時に沸騰して日本の危機を絶叫し、舞踏会の才子・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ このような疑惑は思いの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢を遙かにながく生き延びる。とっくに分別のできた大人が、今・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
出典:青空文庫