・・・ら雪に吹かれて立ち詰めだった坂田が未練もみせずに飲み残すのはどうしたことか、珈琲というものは、二口、三口啜ってあと残すものだという、誰かにきいた田舎者じみた野暮な伊達をいまだに忘れぬ心意気からだろうと思い当ると、松本は感心するより、むしろあ・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・と、私はこのごろある人に聞いて、なるほどそうした場所だったのかと、心に思い当る気がした。 昨年の春私を訪ねてきて一泊して行った従兄のKは、十二月に東京で死んで骨になって郷里に帰った。今年の春伯母といっしょにはるばるとやってきて一泊して行・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・そして何か思い当ることでも有るらしく今まで少し心配そうな顔が急に爽々して満面の笑味を隠し得なかったか、ちょッとあらたまって、「実は少々貴姉に聞て見ることがあるのよ、」 と一段小声で言った。「何に?」と主人の少女も笑いながら小声で・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・ちょうど温かい心もちが無いのではありませんが、機転のきかない妻君が、たまたまの御客様に何か薦めたい献りたいと思っても、工合よく思い当るものが無いので、仕方なしに裏庭の圃のジャガイモを塩ゆでにして、そして御菓子にして出しました、といったような・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・おそらくどんな芸術家でも花の純粋を訳出することは不可能だと言って見せたロダンのような人もあるが、その言葉に籠る真実も思い当る。朝顔を秋草というは、いつの頃から誰の言い出したことかは知らないが、梅雨あけから秋風までも味わせて呉れるこんな花もめ・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・な発育の後れたものに成ったとは、これまで彼女が家の人達にも、親戚にも、誰に向ってもそういう風にばかり話して来たが、実はあの不幸な娘のこの世に生れ落ちる日から最早ああいう運命の下にあったとは、旦那だけは思い当ることもあったろうと。そればかりで・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・あの母さんのように、困った夫の前へ、ありったけの金を取り出すような場合は別としても、もっと女の生活が経済的にも保障されていたなら、と今になって私も思い当たることがいろいろある。「娘のしたくは、こんなことでいいのか。」 私も、そこへ気・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ 女の子が、スバシニと云う名を与えられた時、誰が、彼女の唖なことを思い当ることが出来ましょう。彼女の二人の姉は、スケシニスハスニと云う名でした。お揃にする為、父親は一番末の娘にも、スバシニと云う名をつけたのでした。彼女は、其をち・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。 言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥は十分、聡明に用心深く為すべきである。 君の聞き上手に乗せられて、うっか・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・ 四十歳近い頃の作品と思われるが、その頃に突きあたる絶壁は、作家をして呆然たらしめるものがあるようで、私のような下手な作家でさえ、少しは我が身に思い当るところもないではない。たしか、その頃のことと記憶しているが、井伏さんが銀座からの帰り・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫