・・・見物は思い思いに散って行った。散った跡の河岸に誰かが焚きすてた焚火の灰がわずかに燻って、ゆるやかな南の風に靡いていた。 いちばん大きな筒から打上げる花火は、いちばん面白いものでなければならない、という理窟はどこからも出て来ない訳であった・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・三人は思い思いに臥床に入る。 三十分の後彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹を攀じ上った事も、蓮の葉に下りた蜘蛛の事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ おのおの思い思いのめかし道具を持参して、早や流しには三五人の裸美人が陣取ッていた。 浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界は別世界相応の話柄の種も尽きぬものか、朋輩の悪評が手始めで、内所の後評、廓内の評判、検査場で見た他楼の花・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 芭蕉は一定の真理を言わずして時に随い人により思い思いの教訓をなすを常とす。その洒堂を誨えたるもこれらの佳作を斥けたるにはあらで、むしろその濫用を誡めたるにやあらん。許六が「発句は取合せものなり」というに対して芭蕉が「これほど仕よきこと・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・六班がみんな思い思いの計画で別々のコースをとって調査にかかった。僕は郡で調べたのをちゃんと写して予察図にして持っていたからほかの班のようにまごつかなかった。けれどもなかなかわからない。郡のも十万分一だしほんの大体しか調ばっ(ていない。猿ヶ石・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ この私の見方は丁度、三人の按摩さんが各自思い思いに象のからだの一部を摩って見て、「象という獣は鼻のような形のものだ。」「いやそうじゃない、尻尾のようなものだ。」「いや、足のようなものだ。」と言い合っているような類いで、・・・ 宮本百合子 「アメリカ文士気質」
・・・ 向う岸にならんで居る木の小さく見えるほどの大きさ、まわりの草は此の頃の時候に思い思いの花を開いてみどり色にすんだ水と木々のみどり、うすき、うす紅とまじって桔梗の紫、女郎花の黄、撫子はこの池の底の人をしのばすようにうす紅にほんのりと、夜・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・と云って居るのを小耳にはさむと、小供の守位にして置けばいいのに、どんなにかひねっこびれた子になるだろうと思い思いして居た。 一番総領が十三になる孝ちゃんと云う男の子で次が六つか七つの女の子、あとに同じ様な男だか女だか分らない小さいのが二・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・ 各々が思い思いの処に立って、夢からさめたばかりの様に気抜けのした、手持ちぶさたな顔をして、今まで自分等のさわいで居た処を見て始めて、折角盛り分けた薯の椀の或るものはひっくりかえり、いつの間にか上った鶏が熱つそうに、あっちころがし、こっ・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。だから忠利の心では、この人々を・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫