・・・これからが満幅の奇を思うままに発揮した椿岳の真生活であって、軽焼屋や油会所時代は椿岳の先史時代であった。八 浅草生活――大眼鏡から淡島堂の堂守 椿岳の浅草生活は維新後から明治十二、三年頃までであった。この時代が椿岳の最も奇を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それだによってわれわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼のような心を持ったならば実に文学者になれぬ人はないと思います。 今ここに丹羽さんがいませぬから少し丹羽さん・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・白樺の木共はこれから起って来る、珍らしい出来事を見ようと思うらしく、互に摩り寄って、頸を長くして、声を立てずに見ている。 女学生が最初に打った。自分の技倆に信用を置いて相談に乗ったのだと云う風で、落ち着いてゆっくり発射した。弾丸は女房の・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
私は母の愛というものに就いて考える。カーライルの、母の愛ほど尊いものはないと云っているが、私も母の愛ほど尊いものはないと思う。子供の為めには自分の凡てを犠牲にして尽すという愛の一面に、自分の子供を真直に、正直に、善良に育てゝ行くという・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・私はそれよりも、沖に碇泊した内国通いの郵船がけたたましい汽笛を鳴らして、淡い煙を残しながらだんだん遠ざかって行くのを見やって、ああ、自分もあの船に乗ったら、明後日あたりはもう故郷の土を踏んでいるのだと思うと、意気地なく涙が零れた。海から吹き・・・ 小栗風葉 「世間師」
秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う。まことにもの想う人は、季節の移りかわりを敏感に感ずるなかにも、わけていわゆる秋のけはいの立ちそめるのを、ひと一倍しみじみと感ずることであろう。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・俺も森を畑へ駈出して慥か二三発も撃たかと思う頃、忽ちワッという鬨の声が一段高く聞えて、皆一斉に走出す、皆走出す中で、俺はソノ……旧の処に居る。ハテなと思た。それよりも更と不思議なは、忽然として万籟死して鯨波もしなければ、銃声も聞えず、音とい・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ふと私は、一度脈をはかってやろうと思って病人の手を取ってみましたが、脈は何処に打って居るやら、遙か奥の方に打つか打たぬかと思う程で、手の指先一寸程はイヤに冷たく成って居ます。呼吸はと見ると三十位しか無い「はて、おかしいぞ」と思いましたが、瞳・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・『いかにあわれと思うらん』僕には片言のような詩しか口に出て来ないが、実際いつもそんな気持になるんです」「なるほど、なんだかそれは楽しそうですね。しかしなんという閑かな趣味だろう」「あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から僕の部屋の・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫