・・・「いくらもありゃしませんけれどな、お金なぞたんと要らん思う。私はこれで幸福や」そう言って微笑していた。 もっと快活な女であったように、私は想像していた。もちろん憂鬱ではなかったけれど、若い女のもっている自由な感情は、いくらか虐げられ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 僕は世田ヶ谷を通る度に然思う。吉田も井伊も白骨になってもはや五十年、彼ら及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本もはや明治となって四十何年、維新の立者多くは墓になり、当年の書生青二才も、福々しい元老も・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・するともう、私の足はすくんでしまって、いそいで逃げだそうと思うが、それより早く、「あッ、徳永だ――」 と、だれかが叫ぶ。するとまた、「ホントだ、あいつこんにゃく屋なんだネ」 と、違った声がいう。私は勇気がくじけて、みんなまで・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭の片隅に残って居るであろうと思う。 井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立って居る杉の茂り・・・ 永井荷風 「狐」
・・・そうかと思うとランプを仰いで見る。死んだ網膜にも灯の光がほっかりと感ずるらしい。一人の瞽女が立ったと思うと一歩でぎっしり詰った聞手につかえる。瞽女はどこまでもあぶなげに両方の手を先へ出して足の底で探るようにして人々の間を抜けようとする。悪戯・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・これを口にする人は皆それぞれの根拠あっての事と思う。わが知る限りにおいては、またわが了解し得たる限りにおいては(了解し得ざる論議は暫く措必ずしも非難すべき点ばかりはない。けれども自然主義もまた一つのイズムである。人生上芸術上、ともに一種の因・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・その頃私より少し年上であったと思うが、今も何処かに健かにしておられるか知ら。 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・諸君の理性は、決してそんなはずがないと思う。しかも知覚上の事実として、汽車はたしかに反対に、諸君の目的地から遠ざかって行く。そうした時、試みに窓から外を眺めて見給え。いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・然も奴等は前払で取っているんだ、若し私がお芽出度く、ほんとに何かが見られるなどと思うんなら、目と目とから火花を見るかも知れない。私は蛞蝓に会う前から、私の知らない間から、――こいつ等は俺を附けて来たんじゃないかな―― だが、私は、用心す・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・吉里さん、さア思うさま管を巻いておくれ」「ほほほ。あんなことを言ッて、また私をいじめようともッて。小万さん、お前加勢しておくれよ」「いやなことだ。私ゃ平田さんと仲よくして、おとなしく飲むんだよ。ねえ平田さん」「ふん。不実同士揃ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫