・・・俺は今日午休み前に急ぎの用を言いつけられたから、小走りに梯子段を走り下りた。誰でもこう言う瞬間には用のことしか思わぬものである。俺もそのためにいつの間にか馬の脚を忘れていたのであろう。あっと言う間に俺の脚は梯子段の七段目を踏み抜いてしまった・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ HやNさんに別れた後、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡った蜩の声も僕等の耳へ伝わって来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった。「おい、M!」 僕はいつかM・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ と燕は泣く泣く南の方へと朝晴れの空を急ぎました。このまめまめしい心よしの友だちがあたたかい南国へ羽をのして行くすがたのなごりも王子は見る事もおできなさらず、おいたわしいお首をお下げなすったままうすら寒い風の中にひとり立っておいででした・・・ 有島武郎 「燕と王子」
青黄ろく澄み渡った夕空の地平近い所に、一つ浮いた旗雲には、入り日の桃色が静かに照り映えていた。山の手町の秋のはじめ。 ひた急ぎに急ぐ彼には、往来を飛びまわる子供たちの群れが小うるさかった。夕餉前のわずかな時間を惜しんで・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ つい事の起ります少し前でございました、沢井様の裏庭に夕顔の花が咲いた時分だと申しますから、まだ浴衣を着ておりますほどのこと。 急ぎの仕立物がございましたかして、お米が裏庭に向きました部屋で針仕事をしていたのでございます。 まだ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ ――もうお雛様がお急ぎ。 と細い段の緋毛氈。ここで桐の箱も可懐しそうに抱しめるように持って出て、指蓋を、すっと引くと、吉野紙の霞の中に、お雛様とお雛様が、紅梅白梅の面影に、ほんのりと出て、口許に莞爾とし給う。唯見て、嬉しそうに膝に・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・おじいさんは、自分のいったことが、おおかみにわかったものかと、不思議に思いながら、なるたけおおかみのそばをさけて、田や、圃の中を横切りながら、歩いていきましたが、その間は生きた気持ちもなく、村をさして急ぎました。すると、ずっと後から、黒いお・・・ 小川未明 「おおかみをだましたおじいさん」
・・・ 疲れを回復した旅人は、新しい元気に勇んで、街をさして急ぎました。 あとから、雷の音が追いかけるようにきこえたのです。ふり向くと、もはや野原のかなたは、うず巻く黒雲のうちに包まれていました。・・・ 小川未明 「曠野」
・・・「いえね、それならば何ですけど、実はね、こないだお光さんのお話の様子では大分お急ぎのようでしたから、それが今日までお沙汰のないとこを見ると、てッきりこれはいけないのだろうとそう思いましてね。じゃ、まだそう気を落したものでもないのでござい・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・先を急ぎましょう。 さて、これからがこの話の眼目にはいるのですが、考えてみると、話の枕に身を入れすぎて、もうこの先の肝腎の部分を詳しく語りたい熱がなくなってしまいました。何をやらしてみても、力いっぱいつかいすぎて、後になるほど根まけ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫