・・・ 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車の東西に駈けぬける車輪の音、途を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 但し富岡老人に話されるには余程よき機会を見て貰いたい、無暗に急ぐと却て失敗する、この辺は貴所に於て決して遺漏はないと信ずるが、元来老先生といえども人並の性情を有っておるから了解ることは能く了解る人である。ただその資質に一点我慢強いとこ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・「結婚を急ぐな」と私はいいたい。二十五歳までの青年学生が何をあわてることがあろう。美しき娘たちは後から星の数ほどむらがり、チャンスはみちみちている。あまり早期に同じ年ごろの女性と恋愛し、結婚の約束をしてしまうことは、後にいたってあまり好結果・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」 朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りながら、半ば、うつらうつらしつつ寝台に横たわっていた。おやじは、い・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・「急ぐんだ、爺さんはいないか。」「おはいり。」 女は、居るというしるしに、うなずいて見せて、自分の身を脇の箱を置いてある方へそらし、ウォルコフが通る道をあけた。「どうした、どうした。また××の犬どもがやって来やがったか。」・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ わたくしは、かならずしもしいて死を急ぐ者ではない。生きられるだけは生きて、内には生をたのしみ、生を味わい、外には世益をはかるのが当然だと思う。さりとてまた、いやしくも生をむさぼろうとする心もない。病死と横死と刑死とを問わず、死すべきの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 私は必しも強いて死を急ぐ者ではない、生きられるだけは生きて、内には生を楽しみ、生を味わい、外には世益を図るのが当然だと思う、左りとて又た苟くも生を貪らんとする心もない、病死と横死と刑死とを問わず、死すべきの時一たび来らば、十分の安心と・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ けれども、相手の女は、まるで一匹のたくましい雌馬のように、鼻孔をひろげて、荒い息を吐き吐き、せっせと歩いて、それに追いすがる女学生を振払うように、ただ急ぎに急ぐのである。女学生は、女房のスカアトの裾から露出する骨張った脚を見ながら、次第に・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・「ええ、そんなに急ぐのでないから、心掛けて置いて下さいまし。あのう、私、名刺があるんですけれど、」袂から、そそくさと小さい名刺を出した。「裏に、ここの住所も書いて置きましたから、もし、適当のかたが見つかったら、ごめんどうでも、ハガキか何・・・ 太宰治 「鴎」
・・・この町はずれで巡査に呼止められて検査済の札を貼らされたが、一処に止められた他の車に式場へ急ぐらしい角かくしの花嫁の姿も見えたのは気の毒であった。 東京の行政区劃だけは脱け出しても東京の匂いはなかなか脱けない。それでも田無町辺からは昔の街・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫