・・・ 胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先も見えなかったが、一目見られた瞳の力は、刻み込まれたか、と鮮麗に胸に描かれて、白木屋の店頭に、つつじが急流に燃ゆるような友染の長襦袢のかかったのも、そ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・その割れ目は、飛び越すことも、また、橋を渡すこともできないほど隔たりができて、しかも急流に押し流されるように、沖の方方へだんだんと走っていってしまったのであります。 三人は、手を挙げて、声をかぎりに叫んで、救いを求めました。陸の方に近い・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・ことも出来ない、車屋と思ったが、あたりには、人の影もない、橋の上も一尺ばかり水が出て、濁水がゴーゴーという音を立てて、隅田川の方へ流込んでいる、致方がないので、衣服の裾を、思うさま絡上げて、何しろこの急流故、流されては一大事と、犬の様に四這・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間へ小さな急流をなして流れていた。 松木と武石との中隊が、行衛不明になった時、大隊長は、他の中隊を出して探索さした。大隊長は、心配そうな顔もしてみせた。遺族に対して申訳がない、そんなこ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・その形と蘆荻の茂りとは、偶然わたくしの眼には仏蘭西の南部を流れるロオン河の急流に、古代の水道の断礎の立っている風景を憶い起させた。 来路を顧ると、大島町から砂町へつづく工場の建物と、人家の屋根とは、堤防と夕靄とに隠され、唯林立する煙突ば・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・強烈な火の急流のようなアンナ、または男がいつも我流に女を愛して平然としていることその他、女性の家庭生活の不満に充分苦しみながら「でも、大半は婦人に敵対している社会で、一人で生活しなければならない女性の生活の恐ろしさ」の前にちぢんで、諦めの力・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・ このとき、ザブザブと胸まで急流にふみこんで来た男があります。その人は運べるだけの材木、俵、繩などを自分からもち出して、叫んでいます。オーイ、みんな、手持ちの材料をもち寄ろう。早く橋をかけてここを渡るんだ。人筏こしらえよう。女、子供は、・・・ 宮本百合子 「幸福のために」
・・・ 幾分、ふだんより亢奮して居るので、まるで、水かさのました急流の様に、せくにせかれない勢で、想像がドウドウと流れて行く。あんまり何だか薄気味が悪くなって、私は、だれかに来てもらわなければと思った。寒くない様に、障子がしまって、廻し戸がぴ・・・ 宮本百合子 「熱」
・・・周囲の世相が急流のように迅ければ迅いほど、私たちの知識や理解力は深められなければ、やって行けなくなって来ていると思う。 ひところ若い娘の美容法の一くさりに、眼の美しい表情は程よい読書と頭脳の集中された活動によってもたらされる、ということ・・・ 宮本百合子 「若い娘の倫理」
・・・私は世界の運動を鵜飼と同様だとは思わないが、急流を下り競いながら、獲物を捕る動作を赤赤と照す篝火の円光を眼にすると、その火の中を貫いてなお灼かれず、しなやかに揺れたわみ、張り切りつつ錯綜する綱の動きもまた、世界の運動の法則とどことなく似てい・・・ 横光利一 「鵜飼」
出典:青空文庫