・・・と、かすかな声で呟きましたが、やがて物に怯えたように、怖々あたりを見廻して、「余り遅くなりますと、また家の御婆さんに叱られますから、私はもう帰りましょう。」と、根も精もつき果てた人のように云うのです。成程そう云えばここへ来てから、三十分は確・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ あるじは、きちんと坐り直って、「どうしたの、酷く怯えたようだっけ。」「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」 と頬に顔をかさぬれば、乳を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、「鼬が、阿母さん。」「ええ、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・内職の、楊枝を辻占で巻いていた古女房が、怯えた顔で――「話に聞いた魔ものではないかのう。」とおっかな吃驚で扉を開けると、やあ、化けて来た。いきなり、けらけらと笑ったのは大柄な女の、くずれた円髷の大年増、尻尾と下腹は何を巻いてかくしたか、縞小・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ ワッと怯えて、小児たちの逃散る中を、団栗の転がるように杢若は黒くなって、凧の影をどこまでも追掛けた、その時から、行方知れず。 五日目のおなじ晩方に、骨ばかりの凧を提げて、やっぱり鳥居際にぼんやりと立っていた。天狗に攫われたという事・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯えた声を出して、と云ってな、三反ばかり山路の方へ宙を飛んで遁出したと思え。 はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目も触らず、坊主が立ったと思う処は爪立足をして・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・が、実は蛇ばかりか、蜥蜴でも百足でも、怯えそうな、据らない腰つきで、「大変だ、にょろにょろ居るかーい。」「はああ、あアに、そんなでもねえがなし、ちょくちょく、鎌首をつん出すでい、気をつけさっせるがよかんべでの。」「お爺さん、おい・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ と仰山に二人が怯えた。女弟子の驚いたのなぞは構わないが、読者を怯しては不可い。滝壷へ投沈めた同じ白金の釵が、その日のうちに再び紫玉の黒髪に戻った仔細を言おう。 池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手を拍つ、立騒ぐ声が響いて、最初・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・と客は歎息して怯えたように言った。「ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。」「貸座敷――女郎屋の亭主かい。おともはざっと幇間だな。」「あ、当りました、旦那。」 と言ったが、軽く膝で手を拍って、「ほんに、辻占がよ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ ――馬じゃ…… と居士が、太く怯えた声で喚いた。私もぎょっとして後へ退った。 いや、嘘のような話です――遥に蘆の湖を泳ぐ馬が、ここへ映ったと思ったとしてもよし、軍書、合戦記の昔をそのまま幻に視たとしても、どっち道夢見たように、・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・車麩の鼠に怯えた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚した、厠の戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いで扉を閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれ馳せながら、正体見たり枯尾花流に――・・・ 泉鏡花 「古狢」
出典:青空文庫