・・・ 舌はここで爛れても、よその女を恋うるとは言えなかったのである。「どの、お写真。」 と朗に、しっとり聞えた。およそ、妙なるものごしとは、この時言うべき詞であった。「は、」 と載せたまま白紙を。「お持ちなさいまし。」・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 詩人は声はり上げて『わが心高原にあり』をうたい、『いざ去らば雪をいただく高峰』の句に至りて、その声ひときわ高く、その目は遠く連山の方を見やりて恋うるがごとく、憤るがごとく、肩に垂るる黒髪風にゆらぎ昇る旭に全身かがやけば、蒼空をかざして・・・ 国木田独歩 「星」
・・・ されどこれもまたわが心の迷いなるべきか、われ治子を恋うる心の深きがゆえなるべきか。かく思いつづけて青年が手はポケットの中なるある物を握りつめたり、その顔にはしばらく血の上るようなりしが、愚かなると言いし声は低ければ杖もて横の欄打ちし音・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・祭る聖母は恋う人の為め、人恋うは聖母に跪く為め。マリアとも云え、クララとも云え。ウィリアムの心の中に二つのものは宿らぬ。宿る余地あらばこの恋は嘘の恋じゃ。夢の続か中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリの響が聞えて、例の如く夜が明・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・そを誰か知らん。恋うるも恋うるゆえに恋うるとこそ聞け、嫌うもまたさならん」「あるとき父の機嫌よきをうかがい得て、わがくるしさいいいでんとせしに、気色を見てなかばいわせず。『世に貴族と生れしものは、賤やまがつなどのごとくわがままなる振舞い・・・ 森鴎外 「文づかい」
出典:青空文庫