・・・ここで若い靴磨きが変な街路詩人の詩を口ずさみ三等席の頭上あたりの宵の明星を指さして夕刊娘の淡い恋心にささやかな漣を立てる。バーからひびくレコード音楽は遠いパリの夜の巷を流れる西洋新内らしい。すべてが一九三三年向きである。 この芝居を見て・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 定子を見ていると、その父であった木部に対して恋心めいたものさえ甦える場面は、ある種の読者を魅するであろうが、真にある男を愛し、やがてそれを憎悪したという痛烈な経験をもっている女の読者がその部分を読んだとしたら、果して共感を胸に感じるで・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・無精で呑気で仇気ない愛嬌があって、嫋やかな背中つきで、恋心に恍惚しながら、クリストフと自分との部屋の境の扉を一旦締めたらもう再び開ける勇気のなかったザビーネ。白く美しい強壮な獣のようなアダ。フランスの堅気な旧教的な美を代表するアントワネット・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・雄鳩は悲しさと恋心の混り合った感情に揺られ、猶も自分の傍に来させようと、コツコツ・コツコツ嘴で棲り木をたたいた。時々羽毛の触る微かなカサカサいう音がするだけで、雌は終に彼の傍に戻って来なかった。 黎明が鳩の目を明るくした。雄鳩は大き・・・ 宮本百合子 「白い翼」
・・・そこに一貫しているものは稚い恋心と下町の情緒、吉原界隈の日常生活中の風情、その現実と夢とを綯い合わせた風情である。「にごりえ」の女主人公であるお力は酌婦である。けれども、生れは士族である。そのことを心の秘かな誇りとしている女である。が、・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫