・・・色は雲なき大空の色と相映じて蒼々茫々、東は際限なく水天互いに交わり、北は四国の山々手に取るがごとく、さらに日向地は右に伸びてその南端を微漠煙浪のうちに抹し去る、僕は少年心にもこの美しい景色をながめて、恍惚としていたが、いつしか眼瞼が重くなっ・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・の空うち見やれば二つの小さき星、ひくく地にたれて薄き光を放てり、しばらくして東の空金色に染まり、かの星の光自から消えて、地平線の上に現われし連山の影黛のごとく峰々に戴く雪の色は夢よりも淡し、詩人が心は恍惚の境に鎔け、その目には涙あふれぬ。こ・・・ 国木田独歩 「星」
・・・スバーは、際限のない自分の寂しささえ超えて恍惚として仕舞いました。彼女の心は、堪え難い程苦しく重い、而も、云うことは出来ないのです。口には云わず心配の多い母、自然の足許に、此も無言の裡に悩む一人の娘が、いつまでも立っていました。 彼女を・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・私は自分の、その時の身の上を、嘘みたいな気がした。恍惚と不安の交錯した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手が附かず、いたたまらなくなった。 東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を・・・ 太宰治 「東京八景」
撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり ヴェルレエヌ 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい・・・ 太宰治 「葉」
・・・二十三の娘が、あんまり恋を恐れ、恍惚を憎んで、とうとうお金持ちの六十の爺さんと結婚してしまって、それでもやっぱり、いやになり、自殺するという筋の小説。すこし露骨で暗いけれど、戸田さんの持味は出ていました。私はその小説を読んで、てっきり私をモ・・・ 太宰治 「恥」
・・・宗教に熱中した人がこれと似よった恍惚状態を経験することもあるのではないか。これが何々術と称する心理的療法などに利用されるのではないかと思われる。 酒やコーヒーのようなものはいわゆる禁欲主義者などの目から見れば真に有害無益の長物かもしれな・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・科学者のM君は積分的効果を狙って着実なる戦法をとっているらしく、フランス文学のN君はエスプリとエランの恍惚境を望んでドライブしているらしく、M夫人の球はその近代的闊達と明朗をもってしてもやはりどこか女性らしいやさしさたおやかさをもっているよ・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・一しきり襲い来る雨の足に座敷からさす灯が映えて、庭は金糸の光に満つる。恍惚としていた時に雨を侵す傘の音と軽い庭下駄の音が入口に止んで白い浴衣の姿が見えた。女中のお房が雨戸をしめに来たのである。自分は笛を下に置いて座敷にはいった。女中は縁側の・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ようにつながって、なかなか切れないのを、気長に幾度となくすくっては落し、落してはまたすくい上げて、丁度好加減の長さになるのを待って、傍の小皿に移し、再び丁寧に蓋をした後、やや暫くの間は口をも付けずに唯恍惚として荒海の磯臭い薫りをのみかいでい・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫