・・・私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかったなら、私は恐らく大声をあげて、周囲の注意をこの奇怪な幻影に惹こうとした事でございましょう。 しかし、妻の視線は、幸にも私の視線と合しま・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・それは恐るべき悪文だった。マストに風が唸ったり、ハッチへ浪が打ちこんだりしても、その浪なり風なりは少しも文字の上へ浮ばなかった。彼は生徒に訳読をさせながら、彼自身先に退屈し出した。こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁じた・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 田中喜一氏は、そういう現代人の性急なる心を見て、極めて恐るべき笑い方をした。曰く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳百出するので・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。 小樽の活動を数字的に説明して他と比較することはなかなか面倒である。かつ今予はそんな必要を感じないのだから、手取早くただ男らしい活動の都府とだけ呼ぶ。この活動の都府の道路は人もいうごとく・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 何故に、わが背戸の雀は、見馴れない花の色をさえ恐るるのであろう。実に花なればこそ、些とでも変った人間の顔には、渠らは大なる用心をしなければならない。不意の礫の戸に当る事幾度ぞ。思いも寄らぬ蜜柑の皮、梨の核の、雨落、鉢前に飛ぶのは数々で・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・母御に見えて―― 湯帰りに蕎麦で極めたが、この節当もなし、と自分の身体を突掛けものにして、そそって通る、横町の酒屋の御用聞らしいのなぞは、相撲の取的が仕切ったという逃尻の、及腰で、件の赤大名の襟を恐る恐る引張りながら、「阿母。」・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜恤ある者は矜恤を以て審判かれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、「我等に負債ある者を我等が免す如く我等の負債を免し給え」、恐るべき審判の日に於て矜恤ある者は矜恤を以て鞫かるべしとの・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・北海に浜する国にとりては敵国の艦隊よりも恐るべき砂丘は、戦闘艦ならずして緑の樅の林をもって、ここにみごとに撃退されたのであります。 霜は消え砂は去り、その上に第三に洪水の害は除かれたのであります。これいずこの国においても植林の結果として・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深く鑵を引出して、見惚れたように眺め廻した。……と彼は、ハッとした態で、あぶなく鑵を取落しそうにした。そして忽ち今までの嬉しげ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ ことには冬季の寒冷は恐るべきものがあったに相違ない。 雪が一丈も、二丈もつもった消息も書かれてあり、上野殿母尼への消息にも「……大雪かさなり、かんはせめ候。身の冷ゆること石の如し。胸の冷めたき事氷の如し」と書いてある。 こうし・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫